第86話 一歩が向かう先
「最初はじわじわ押し上げる。無理に踏み込むな」
低い声で告げたのは、バルケ三年のガルドンだった。
「ロウガ」
一年にして前衛最速。バルケのエース。
「土壁まで列を持っていく」
顎でしゃくる。
「そこから先は、お前だ。
あの薄っぺらい壁、まとめて崩せ」
ロウガは、わずかに口角を上げた。
「任せてください」
その背に、仲間たちがどん、と拳を当てる。
「押すぞ!」
重い足音が、揃って前へ流れ出した。
そのまま、視線だけが前を測る。
――ルーク・ハルトシュタイン。
左右に前衛二人。その後ろに中衛、さらに後衛。
崩れのない、教本どおりの陣形。
視線が、わずかに横へ流れた。
控え席。静かにフィールドを見ている少年。
ガルドンが鼻で笑う。
「補欠だとよ。噂ほどじゃねえな」
ロウガは答えない。
視線を戻す。土壁。その手前の地面。
ガルドンの短い指示。
「……足元、見とけ」
ロウガは深く息を吸い込む。
「踏み潰す」
◇
「——開始!」
審判の旗が、振り下ろされる。
バルケの前衛列が、一斉に大地を蹴る。
中衛列がぴたりと後ろにつく。
「押し込め!」
ガルドンの号令。
ロウガたちは前に出る。
——十一歩目。
靴底に伝わる大地の感覚。
踏んだはず。
「……っ」
沈む。
体が前に流れるのを踏みとどまる。
次の瞬間、右隣から短い悲鳴が上がった。
「うわっ——!」
ロウガの隣で、隊列がわずかに崩れた。
反射的に腕を伸ばし、仲間の肩を掴む。
「だ、大丈夫……っ」
足はすぐに引き抜けた。
「慌てるな!」
後ろから、ガルドンの声が飛んだ。
「倒れなければ問題ない!」
ほんの一瞬減速。ロウガは息を吐く。
「壁までは行くぞ!」
今度は踏む場所を選ぶ。
十五歩、二十歩。二十五歩。地面を蹴る。
穴に足を取られる者は出る。だが、崩れはしない。
「ロウガ!」
ガルドンの声が飛ぶ。
土壁が目前に迫る。
「行け!」
ロウガは、魔力を一段階引き上げる。
両脚の筋肉と筋をぎゅっと締め上げる。
弾く。加速する。体を叩きつける。
——ガンッ。
重く鈍い音。
「っ……!」
肩口から、衝撃が返ってくる。
——硬い。
壁が、動かない。
「もう一回だ!」
ガルドンの号令。
ロウガは歯を食いしばり、一歩下がる。
「——せぇのッ!」
二度目。
ガァンッ!
今度は、わずかに返り方が変わる。
壁が、ほんのわずかに揺れた。
観覧席から、どよめきが上がった。
「どうなってんの」
「トラルの壁、固くね?」
トラル側からも声が上がる。
「やった! 止まったぞ!」
「……ちゃんと効いてる」
ロウガは息を整えながら、土壁を見る。
「……削れてる」
全身が痛み、額には汗。
だが——
顔を上げる。
「次でぶち抜ける!!」
その一言で、前衛の目に火が戻る。
「おう!」
「やってやる!」
列を整える。
呼吸を合わせる。
三度目。
地面を蹴る音が、再び揃った。
◇
「ルーク先輩!」
フィールド外、ノエルが一歩踏み出す。
指先が震えたまま、壁の一角を指した。
「ヒビ、入ってます!」
「どこだ」
「そこ――右寄り。焼きが……薄いです」
唇を噛むノエル。
ルークは一瞬だけ目を閉じた。
息をひとつ、押し込む。
「分かった」
背を預けていた土壁から体を離す。
前衛の背中へ、視線を走らせる。
「聞け!」
壁越しでも響く声。
「次の一撃で、そこを抜かれる!」
指が示した一点へ、前衛たちの視線が集まる。
「ロイ、マリア!」
後衛へ飛ばす。
「割れた瞬間、左右を潰せ! 真ん中は――」
一瞬。
控え席へ流れかけた視線を、切る。
「いいか!」
声をさらに張る。
「壁は守る意思で持つ!
足を止めるな! 目をそらすな!」
「「おおっ!」」
トラルの声が、一本にまとまった。
◇
ロウガは、足裏に意識を沈めていた。
土の硬さ。沈み。返り。
全部を拾いながら、魔力をもう一段引き上げる。
「うおおおおおっ!!」
踏み込み。衝突。
——バキッ。
鈍い裂け音。
「割れた!」
歓声。
壁に走る亀裂が、一気に広がる。
崩れた隙間、ロウガはその先の視線へ。
——いる。
トラル前衛が、すでに構えていた。
「来るぞ!」
ルークは足元の陶片を、蹴り払う。
正面から、受ける。
——ガチィンッ!
衝撃。腕に、鈍い軋み。
「っ……!」
歯を食いしばり、押し返す。
だが、止まらない。
「押せぇっ!」
「壁なんざもうねえぞ!」
ガルドンの怒号。圧が、重なる。
横で、誰かの足が滑る。
「まずい——!」
視界の端。
エマの足が、砕けた陶片に取られている。
「エマ、下がれ!」
ルークは足場を無視して、半歩前へ体を入れる
受けた。
次の瞬間。
「——ッ!!」
骨が、鳴った。鈍く、嫌な音。
「ルークっ!!」
体が弾かれる。
背中から、土へ叩きつけられた。
ゴロッ——。
破片が、肩口に当たる。
「っぐ……!」
息が抜ける。視界が、一瞬だけ白く飛ぶ。
その隙間に――
「今だ、抜けろ!!」
ガルドンの号令に、ロウガが滑り込む。
倒れかけた体の横を、掠めるように。
「守りが——!」
トラル寮席からも、悲鳴に似た声が上がった。
「——まだだ!」
後方。
ロイが、ルークの肩を支え、前を睨みつけている。
「動揺するな!」
「でも——!」
揺れる視線。崩れた中央と倒れたルーク。
どちらを見るか、迷う一瞬。
ルークが、左手だけでロイの袖を掴む。
冷たい。だが、握りは強い。
「俺は……いい。前、見ろ……」
息が浅い。それでも、目は生きている。
「崩れる……」
「……」
「行け!」
その一喝で、視線が前へ戻る。
「抜いたぞ! このまま旗まで——!」
バルケ寮席から歓声。
足音が揃う重い圧。
トラルの列が、じりじりと押される。
踏ん張る。だが、半歩遅れる。
その隙間に、黒い肩がねじ込まれる。
止まらない。押されていく。
旗へ続く道が伸びていく。
旗が、揺れた。
——このまま、持っていかれる。
◇
「兄さん!」
アレンは半歩、踏み出しかけた。
肩を、後ろから掴まれる。
「まだ、出番じゃ——」
振り払った瞬間、
「——出ろ!」
掠れた声が、空気を裂いた。
「アレンを——出せ!!」
フィールドのロイが、即座に手を挙げる。
「トラル寮、交代! アレン・ハルトシュタイン!」
審判の旗が振られる。
前へ。アレンの足が、もう止まらない。
その視界の先。
ルークが、よろめきながらも腕を上げていた。
「ここから先は——」
震える指が、前を指す。
「お前の足だ……!」
◇
バルケ前列の右端。
「おい、トラルの一年、何して——」
肩を組んでいた少年が顔を上げた。
アレンは、そこで一度だけ足を止める。
目の前に、ルークたちのライン。
だが、その少し先——
肩と肩の間。
噛み合うはずの継ぎ目が、わずかにずれる。
一歩目。
右足首に、ごく薄く魔力を流す。
地面を掴む感覚を軽くする。
二歩目。
正面に踏み込む軌道。まだ弾かない。
相手の視線を、まっすぐ引きつけたまま——
三歩目。
直前で、上体だけを横へ流した。
「——!」
相手の肩が、そちらへ寄る。
——今だ。
地面とのつながりが一瞬薄くなる。
視界の縁が、きゅっと引き縮む。
肩と肩の隙間へ。列の脇をすべる。
「ちょっ——」
バルケ右端の少年の手が、空をつかむ。
肩を組んでいた間に、風だけが通り抜けていった。
「どこ行った!」
怒鳴り声が離れていった。
◇
「待て、そっちは旗だ!」
後衛から声が飛ぶ。
「俺が行く!」
押し合っていた列から、ロウガは半歩だけ体を引いた。
踏んでいた圧を外し、足の向きを自陣へ切り替える。
次の瞬間、ひとりだけ前に飛び出す。
追いかける背中が、前で揺れている。
前方、味方が三人。
腕を広げ、横一列に並ぶ。
その向こうに、バルケの旗。
踏み込む。地面を掴んで蹴る。
一歩ごとに、間が削れていく。
——届く。
が、わずかに半歩足りない。
ロウガは、もう一段脚に力を載せた。
全身が軋む。骨の奥が、鈍く鳴る。
構わない。この半歩を、潰す。
「逃がすか!」
声と同時に、腕を振り抜く。
指先が、触れる——
◇
背後からの足音。
アレンはあえて速度を落とし、呼吸を整える。
「逃がすか!」
ロウガの声が伸びる。
袖口に、風が絡む。
——来る。
次の瞬間。
視界を、落とした。
前に開いた足。その下へ、滑り込む。
はね上げた土が、頬をかすめる。
背後で、空を切る音。
目の前に、旗。
転がるように体勢を流し、そのまま指先を伸ばす。
布の感触と同時に、審判の声が響いた。
「——旗タッチ! 勝者、トラル寮!!」
一瞬の間。
——直後。
「やったー」
「取ったあああ!」
「初戦突破だぞ!?」
爆発した。
トラルの席が、まとめて立ち上がる。
手が鳴り、声がぶつかり、誰かが泣いている。
遅れて、ざわめきが広がる。
「……下から、かよ」
「今の、見えたか?」
熱が、フィールド全体に波のように広がっていく。
ロウガは、奥歯を噛みしめた。
息が荒い。脚が、まだ脈打っている。
——届かなかった。
あの一瞬の、ズレ。
視線が、土埃の先に向かう。
走り抜けた背中を、黙って見ていた。
◇
「見た今の!」
隣でリッツが身を乗り出す。
歓声が、遅れて押し寄せてくる。
「クラリスさん?」
返事はない。
クラリスの視線は、まだフィールドの上にあった。
踏み切って。抜けた。
そのあいだを、なぞる。
「……お見事……ですわ」
クラリスは、ゆっくり目を閉じた。




