第128話 手元の火と四歩目
グレンは、魔導コンロをじっと見ていた。
昼の営業が終わって、《子どもの家食堂》の厨房には、まだ少しだけ熱が残っている。
陶板のコンロが、じんわりと温い。
「……よくできてんな」
ぽつりとそう言って、グレンは指先でコンロの縁をコン、と叩いた。
「火力も安定。炭も使わねえ。煙も、前よりはだいぶマシだ」
ノエルは、手拭きで額の汗を拭きながら頷いた。
「制御線、ちゃんと仕事してる。
魔石ハンバーグも、今のところ割れたり焦げたりはしてない」
「店用には、文句ねえ」
「には?」
ノエルが首をかしげる。
グレンはコンロから目を離して、土間の隅を顎でしゃくった。
そこには、前に使っていた小さな炭かまどが、いくつか残っている。
「町のやつらに、こんなでけえもんは要らねえ」
グレンは魔導コンロを軽く叩いた。
「まずは小さいコンロだ。
小鍋ひとつ温められて、屋台の端に置けて、婆さんでも持てるくらいのやつ」
「店用の魔導コンロの、小型版?」
「そうだ。長く火を使うやつには、それがいる」
グレンは、今度は古い炭かまどのほうを見た。
「けど、それとは別に、一回ぶんだけ火が出るやつも欲しい」
「一回ぶん?」
「魔石はまだまだ手に入りにくい。結局周りは炭を使う。
これ一本あれば、とりあえず火が起きるってやつが必要になる」
ノエルは少し考える。
「火打石じゃ駄目なの?」
グレンは窓の外を見た。
外では、子どもたちが片づけをしている。
昼のハンバーグをこねていた台では、今は布袋を使って、魔石ハンバーグ用の欠け石と土をまとめていた。
「手が冷たくて震えてても、濡れてても、力がなくても、簡単に火がつくくらいのやつ。
子どもだけで使わせる気はねえが、火の使い方はきっちり教えておきたい」
ノエルは、グレンの顔を見た。
いつもの図々しい顔だった。
偉そうで、口が悪くて、ろくに頭も下げない。
けれど、その目は真面目だった。
「つまり、小型の火起こし札?」
「札だけじゃ使えないだろ」
「一瞬でいいから、火を保つ形……」
「だったら棒だ。先端に魔石粉をつければいい」
「魔石粉?前にいってたアレのこと?」
ノエルは、作業台の下に置いてあった小さな袋を指さした。
「そう、魔石の削りカスだ。ギルドで出てた捨てるって言ってたやつ」
ノエルの顔が一瞬で険しくなる。
「魔石粉は危ないって何回言えば分かるの」
「だから、危なくねえ形にしろって言ってんだよ」
グレンは悪びれずに言った。
「魔石ハンバーグは、欠け石を土でまとめた。
じゃあ、もっと少ない魔石粉を、もっと細く小さく。
それで、一回きりで燃えるようにできねえか」
ノエルは黙った。
頭の中で、すでに形を考え始めている顔だった。
「……魔石粉を細い芯にして、外側を土か薄い陶で固める。
魔導基盤に線を作らず、直接触れさせる。
こすったら、固めた薄い陶が剥がれ、魔力が爆ぜる」
「それ、すごく危ないじゃないか」
「爆ぜるのは一瞬。量も調節して、ごく小さい火種にする」
「簡単じゃない」
「できるんだな」
グレンが、にやっと笑う。
「だから、簡単じゃない。
それに長く燃やすものじゃないよ。火種を作るだけ」
「それでいい」
グレンは即答した。
「火種がありゃ、人は火を育てられる」
ノエルは、その言葉に少しだけ黙った。
グレンは指を握りしめる。
「そいつらが、グレンのマッチ一箱あれば安心って顔するなら、それでいい」
「……名前、もう決まってるんだ」
「決めてねえよ」
「今、グレンのマッチって言った」
「じゃあ仮だ。仮」
「絶対そのまま売る気でしょ」
ノエルはため息をついた。
そこへ、片づけを終えた子どもたちが顔を出した。
「なに? グレンマッチ?」
「火がつくやつ?」
「一箱ください!おいくらです?」
「まだできてねえ!」
笑い声が広がる。
ノエルも笑いながら、けれどしっかり袋を自分の鞄へしまった。
「これは研究会で預かる。
勝手に触らない。子どもにも触らせない。いいね」
「へいへい」
グレンは肩をすくめる。
「でも、急げよ。
火は戻ったが、まだ足りねえ場所はいくらでもある」
ノエルは頷いた。
「分かってる」
◇
その日の夕方、ノエルは学園医務室に顔を出した。
今日はアレンのリハビリの日だった。
「店、どうだった?」
アレンが聞くと、ノエルは椅子に座りながら笑った。
「昼も夜も大盛況。
手洗いも、浄化液も、魔導コンロも、ちゃんと回ってた」
「よかった」
アレンは小さく息を吐いた。
本当に、少しだけ肩の力が抜ける。
「あと、グレンくんがまた変なことを言い出した」
「変なこと?」
アレンは瞬きした。
「ひとつは、小型の魔導コンロ。
店用よりずっと小さくて、小鍋ひとつ温めるくらいのやつ」
「もうひとつが、グレンマッチ。
魔石粉を使った、一回ぶんの火起こし具。
火を保つんじゃなくて、火種を作るためのものだね」
ノエルは続ける。
「魔導コンロは、店の火。
小型の魔導コンロは、小さな火。
グレンマッチは、手元に持てる火だね」
「手元に持てる火……」
火は戻った。
自分がいなくても。
自分が走らなくても。
戻っただけじゃなく、火もグレンも魔道具も先に進もうとしている。
「アレンくん、そういえば今日歩くんでしょ」
ノエルが少し声を低くする。
「うん。無理はしないけど」
ノエルは疑うように見たが、そこで医師が入ってきた。
「なら、今日は四歩目を試す」
アレンの目を見開いた。
「いいんですか?」
「試すだけだ。成功させるとは言っていない」
医師は床の白線を指さした。
「三歩目。そこでいつも止まる。
四歩目は、足首に魔力を置かず、杖と重心だけで出す」
「はい」
アレンはベッドから足を下ろした。
右足首は、まだ頼りない。
痛いというより、遠い。
息を吸う。
一歩目。
左足が床を踏む。
二歩目。
右足が遅れてついてくる。
三歩目。
白い線の手前。
いつもなら、ここで身体が勝手に昔の順番を探す。
足首に火を置こうとする。
前へ、前へと行こうとする。
火を置かない。
足首ではなく、杖。
魔力ではなく、重心。
一瞬の速さではなく、ゆっくり移す。
四歩目。
右足が、白い線の向こうへ出た。
小さな一歩だった。
速くもない。
強くもない。
誰かの旗に届く一歩でもない。
ただ、床を踏んだ。
医務室が、静かになる。
ノエルが息を呑んだ。
医師はすぐにアレンの肩を支えた。
「そこまでだ。戻るぞ」
「はい」
アレンは、今度は逆向きにゆっくり戻った。
ベッドに座った瞬間、全身から力が抜ける。
右足首は冷たい。
けれど、壊れてはいない。
医師が足首に触れ、脈を見て、しばらく黙った。
「……問題ない」
「ついに、四歩目だね」
ノエルの声が震えていた。
医師は咳払いした。
「調子に乗るな。明日も四歩できるとは限らない」
「はい」
医師は少しだけ視線を外した。
「だが、今日は一歩進めた。それは誇っていい」
アレンは、自分の右足を見た。
自分の足元にも、ほんの少しだけ戻ったものがある。
ノエルが、鞄から一枚の小さな紙を取り出した。
「これ、グレンくんから」
「なに?」
紙には、乱暴な字で一言だけ書いてあった。
『火は戻った。次はお前の番』
アレンはそれを見て、しばらく黙った。
ノエルも覗き込んだ。
「相変わらず……偉そうだね」
窓の外では、夕方の光が沈み始めていた。
焼き場の火は、もう見えない。
けれど、どこかで誰かが、今日も小さな火を守っている。
アレンは紙を畳み、枕元に置いた。
その日、アレンは走らなかった。
跳ばなかった。足に火を置かなかった。
それでも、四歩目を踏んだ。




