第120話 紙の上の基準
「以上が、英雄タレ騒動の現状でございます」
官吏が、最後の紙を机に揃えた。
粗悪品の一覧。
回収済みの瓶の本数。
腹を壊した者の人数。
死者は、今のところゼロ。
ヴァルドは、その一行に目を止めた。
「今のところか」
官吏は答えず、次の紙を差し出した。
「英雄のタレを名乗る品は、この通りです。
味の再現を試みたものもありますが、多くは色と粘りだけを似せた粗悪品でした。
奇跡のタレと称し、病に効くとうたった品も押収済みです」
ヴァルドは、紙束の中から一枚を抜いた。
『仕入れ先:グレン商会』
同じ名が、いくつかの瓶に書かれている。
「粗悪品の主犯か」
「そこが……」
官吏は、一瞬だけ言葉を選ぶように目を伏せた。
「グレン商会から、そのまま仕入れたと証言する屋台もございます。
ですが、水や安い調味料で薄めたりして売っていた例も多く、腹を壊した者の多くは、そちらの類いでして」
「英雄の味を薄めて売ったほうが、腹を壊したと」
「はい。押収品の一部にグレン商会の名があり、本人も責任者グレンと名乗っております。
流通元の確認のため、当初は元締めと見て同行を求めました。
ですが、現時点では粗悪タレを故意に流通させたと断じるには、材料が不足しております」
「嫌疑不十分」
ヴァルドは、指先で紙を叩いた。
英雄。
奇跡。
スタンピード。
便利な言葉ほど、よく売れる。
そして責任を取る時には、看板だけが残る。
「《英雄焼き肉》は、正式にその名を掲げているな」
「はい。看板にもその名がございます。民の間でも、すでに広く知られております」
「ならば、英雄の名を冠する飲食場として扱う」
官吏が、小さく息を呑んだ。
ヴァルドは続ける。
「グレン商会については、粗悪品の主犯とは認めがたい。釈放しろ。ただし監視対象とする」
「反発が出るかと」
「英雄タレの元締めとして晒し者にでもすれば、下町に新しい英雄が一人できる。無用な旗をこちらから立てる必要はない」
官吏は、ほっとしたような、複雑なような顔をした。
「では、《英雄焼き肉》そのものの扱いは?」
「英雄の名を冠する焼き場として、 王都の基準をすべて適用する」
ヴァルドは、別の通達案に目を落とした。
『飲食場における炭の供給基準』
『食肉処理および保存に関する衛生指針』
『火災時対応および避難経路の提出義務』
紙は、いくらでも増やせる。
火も、水も、肉も、紙の上では線と数字に変えられる。
「炭の供給は、監査中の焼き場に対しては他より後回しとする。
食肉の扱いも、解体場の基準が定まるまで厳格に。
水場、煙、避難経路、孤児の労働実態も確認対象だ。
基準適合の確認後、営業を許可する」
官吏が、わずかに眉を動かした。
「事実上……」
「営業停止ではない。紙の上に基準があるだけだ。
営業に戻る道は、開いている」
ヴァルドは窓の外を見た。
世界樹の枝を据えた噴水に、人が群がっている。
水は少しずつ澄み、王都の喉を潤している。
「水は王都全体のものだ。火も、肉も同じだ」
その声は淡々としていた。
「英雄のものではない」
ヴァルドは、最後の紙に印を押した。
「火は消さない。だが、番は置く」




