第119話 逃げていない字
翌朝、テオは市場へ行った。
グレン兄ちゃんの露店が、どうなっているか確かめたかった。
昨日まで、そこには小さな木箱があった。
茶色いラベルの瓶。
少し曲がった字。
『グレンダレ』
でも、その木箱は空だった。
代わりに、市場の真ん中では、色つきの瓶がずらっと並んでいた。
「見ろ、英雄のタレだってよ」
「こっちは奇跡のタレ。腹にも効くってさ」
「効くなら先に売ってるやつが飲めよ」
誰かが笑った。
それでも、瓶は売れていく。
「安いなら一本もらうか」
「昨日の騒ぎのうちに売り切れたら困るしな」
「本物かどうかなんて、食ってみなきゃ分からねえよ」
そう言って、銅貨や銀貨が出されていく。
テオは、空の木箱の前で立ち止まった。
グレン兄ちゃんは言っていた。
「安売りして、英雄のついでに買われる気はねえ」
でも今、その木箱の横に、グレン兄ちゃんはいない。
兵士に連れていかれたからだ。
◇
テオは午前中ずっと、空の木箱をぼんやり眺めていた。
昼を少し過ぎたころ、市場の空気が変わる。
「英雄タレで腹壊したやつがいるらしいぞ」
「奇跡のタレも怪しいってよ」
「腹壊す奇跡なんかいらねえな」
笑い声が起きた。でも、すぐに消えた。
兵士が来たからだ。
胸に札をつけた兵隊と、紙束を抱えた役人たちが、市場の通りに入ってくる。
「英雄または奇跡の名を冠する食品は、一時回収の対象とする」
「仕入れ先を出せ」
「製造元は」
「責任者は誰だ」
色つきの瓶が、次々とかごに移されていく。
「ちょっと待てよ、これはちゃんと売ってるやつで――」
「表示を確認する。下がれ」
「いつ返すんだよ!」
「確認後だ」
怒鳴り声と、紙をめくる音が混ざる。
テオは、人の足の間から様子を見ていた。
そのとき、役人の一人が、押収した瓶のラベルを読み上げた。
「仕入れ元、グレン商会」
周りの声が、そこで一度だけ止まった。
「グレン商会って、最近露店出してるとこだろ」
「英雄焼き肉のやつか?」
「じゃあ、あいつが元締めか」
「そういうことだろ」
違う。
それは、違う。
グレン商会の瓶は、茶色いラベルだった。
あんな派手な絵も、奇跡なんて文字もなかった。
グレン兄ちゃんは、値段だって下げなかった。
それだけは分かる。
「元締めはグレンらしいぜ」
はっきり聞こえた。
でも、もう周りのらしいのほうが、テオの声よりずっと大きくなっていった。
◇
「ミレーネ!」
テオは、孤児院の扉を勢いよく開けた。
「なに。ノック」
「グレン兄ちゃんが、元締めだって!」
ミレーネは、布を絞っていた手を止める。
「元締め?」
「英雄タレの!
腹壊したやつがいて、兵隊が瓶を持ってって、 偽物にグレン商会って書いてあって。
だから、元締めがグレン兄ちゃんだって!」
一息で言って、息が切れた。
ミレーネはしばらく黙っていた。
その顔が、少しずつ固くなる。
「……あの子は、まっとうになるって、自分で言ったんだよ」
ぽつりと、そう言った。
「妙な水も、妙な夢も、もう売らないってさ。
今度は本物で腹を膨らませるって、そう言った」
ミレーネは布を桶に放り込んだ。
「それで、自分で書いたんだよ」
台所の隅に、一本だけ残った瓶が置かれていた。
茶色いラベル。
曲がった字。
『グレン商会 責任者:グレン』
ミレーネは、その瓶を手に取る。
「このタレの作り方は、ちゃんと見てた。水も、瓶も、混ぜるものも」
それから、少しだけ目を細める。
「焼き肉屋だってそう。水は世界樹の石の水場から、肉はグランツ経由。あの子なりに、全部ちゃんとしようとしてた」
「でも、偽物に名前を使われて……」
「紙にそう書いてあったんだろ」
ミレーネは笑った。
でも、目は笑っていなかった。
「紙ってのは便利だね。嘘でも、人の名前でも、書いたらそれっぽく見える」
テオは何も言えなかった。
「だったら、こっちも書く」
「紙を?」
「そう。
タレを作るところを見た人。 水を運んだ人。 肉を仕入れた人。 店で食べた人。
腹を壊さなかった人。そういうのを集める」
ミレーネは瓶を机に置いた。
「役人が好きなのは、噂話じゃない。事実と紙だ」
台所の奥から、小さい足音がばたばた聞こえてくる。
「なにー?」
「テオ兄ちゃん、こわい顔してる」
ミレーネは子どもたちを見た。
「これから、グレンの紙を書く」
「グレンの紙?」
「そう。
変なものは売ってないって紙」
子どもたちは、きょとんとした。
ニナが手を上げる。
「それ書いたら、グレン兄ちゃん帰ってくる?」
「分かんない」
ミレーネは、あっさり言った。
「でも、何も書かなきゃ、向こうの紙だけが本当になる」
その言葉で、テオの胸がぎゅっとなった。
向こうの紙だけが本当になる。それは嫌だった。
「俺、書く」
「字は?」
「……なんとか」
「じゃあ、賢そうなことを書こうとしなくていい」
ミレーネは紙を出した。
「見たこと、食べたことを書きな。 でも、嘘は書くな」
「なんで?」
「偽物と同じになる」
テオは頷いた。
「じゃあ、書く。
グレン兄ちゃんのタレで、腹いっぱいになりました、って」
「そうしな」
ミレーネは、テオの頭を軽くはたいた。
痛いはずなのに、胸のつかえは少し取れていた。
テオは、机の上の瓶を見た。
ラベルには、英雄の絵も、奇跡の文字もない。
字は小さく、少し曲がっている。
それでも、逃げていない字だった。




