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初級魔法しか取り柄がない!!  作者: なるっち
8章 王立ヴィクリィール学園 ― 下町の火

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第119話 逃げていない字

翌朝、テオは市場へ行った。

グレン兄ちゃんの露店が、どうなっているか確かめたかった。


昨日まで、そこには小さな木箱があった。


茶色いラベルの瓶。

少し曲がった字。


『グレンダレ』


でも、その木箱は空だった。

代わりに、市場の真ん中では、色つきの瓶がずらっと並んでいた。


「見ろ、英雄のタレだってよ」


「こっちは奇跡のタレ。腹にも効くってさ」


「効くなら先に売ってるやつが飲めよ」


誰かが笑った。

それでも、瓶は売れていく。


「安いなら一本もらうか」


「昨日の騒ぎのうちに売り切れたら困るしな」


「本物かどうかなんて、食ってみなきゃ分からねえよ」


そう言って、銅貨や銀貨が出されていく。


テオは、空の木箱の前で立ち止まった。

グレン兄ちゃんは言っていた。


「安売りして、英雄のついでに買われる気はねえ」


でも今、その木箱の横に、グレン兄ちゃんはいない。

兵士に連れていかれたからだ。



 ◇



テオは午前中ずっと、空の木箱をぼんやり眺めていた。

昼を少し過ぎたころ、市場の空気が変わる。


「英雄タレで腹壊したやつがいるらしいぞ」


「奇跡のタレも怪しいってよ」


「腹壊す奇跡なんかいらねえな」


笑い声が起きた。でも、すぐに消えた。


兵士が来たからだ。

胸に札をつけた兵隊と、紙束を抱えた役人たちが、市場の通りに入ってくる。


「英雄または奇跡の名を冠する食品は、一時回収の対象とする」


「仕入れ先を出せ」


「製造元は」


「責任者は誰だ」


色つきの瓶が、次々とかごに移されていく。


「ちょっと待てよ、これはちゃんと売ってるやつで――」


「表示を確認する。下がれ」


「いつ返すんだよ!」


「確認後だ」


怒鳴り声と、紙をめくる音が混ざる。

テオは、人の足の間から様子を見ていた。

そのとき、役人の一人が、押収した瓶のラベルを読み上げた。


「仕入れ元、グレン商会」


周りの声が、そこで一度だけ止まった。


「グレン商会って、最近露店出してるとこだろ」


「英雄焼き肉のやつか?」


「じゃあ、あいつが元締めか」


「そういうことだろ」


違う。

それは、違う。


グレン商会の瓶は、茶色いラベルだった。

あんな派手な絵も、奇跡なんて文字もなかった。

グレン兄ちゃんは、値段だって下げなかった。


それだけは分かる。


「元締めはグレンらしいぜ」


はっきり聞こえた。

でも、もう周りのらしいのほうが、テオの声よりずっと大きくなっていった。



 ◇



「ミレーネ!」


テオは、孤児院の扉を勢いよく開けた。


「なに。ノック」


「グレン兄ちゃんが、元締めだって!」


ミレーネは、布を絞っていた手を止める。


「元締め?」


「英雄タレの!

 腹壊したやつがいて、兵隊が瓶を持ってって、 偽物にグレン商会って書いてあって。

 だから、元締めがグレン兄ちゃんだって!」


一息で言って、息が切れた。

ミレーネはしばらく黙っていた。

その顔が、少しずつ固くなる。


「……あの子は、まっとうになるって、自分で言ったんだよ」


ぽつりと、そう言った。


「妙な水も、妙な夢も、もう売らないってさ。

 今度は本物で腹を膨らませるって、そう言った」


ミレーネは布を桶に放り込んだ。


「それで、自分で書いたんだよ」


台所の隅に、一本だけ残った瓶が置かれていた。


茶色いラベル。

曲がった字。


『グレン商会 責任者:グレン』


ミレーネは、その瓶を手に取る。


「このタレの作り方は、ちゃんと見てた。水も、瓶も、混ぜるものも」


それから、少しだけ目を細める。


「焼き肉屋だってそう。水は世界樹の石の水場から、肉はグランツ経由。あの子なりに、全部ちゃんとしようとしてた」


「でも、偽物に名前を使われて……」


「紙にそう書いてあったんだろ」


ミレーネは笑った。

でも、目は笑っていなかった。


「紙ってのは便利だね。嘘でも、人の名前でも、書いたらそれっぽく見える」


テオは何も言えなかった。


「だったら、こっちも書く」


「紙を?」


「そう。

 タレを作るところを見た人。 水を運んだ人。 肉を仕入れた人。 店で食べた人。

 腹を壊さなかった人。そういうのを集める」


ミレーネは瓶を机に置いた。


「役人が好きなのは、噂話じゃない。事実と紙だ」


台所の奥から、小さい足音がばたばた聞こえてくる。


「なにー?」


「テオ兄ちゃん、こわい顔してる」


ミレーネは子どもたちを見た。


「これから、グレンの紙を書く」


「グレンの紙?」


「そう。

 変なものは売ってないって紙」


子どもたちは、きょとんとした。

ニナが手を上げる。


「それ書いたら、グレン兄ちゃん帰ってくる?」


「分かんない」


ミレーネは、あっさり言った。


「でも、何も書かなきゃ、向こうの紙だけが本当になる」


その言葉で、テオの胸がぎゅっとなった。

向こうの紙だけが本当になる。それは嫌だった。


「俺、書く」


「字は?」


「……なんとか」


「じゃあ、賢そうなことを書こうとしなくていい」


ミレーネは紙を出した。


「見たこと、食べたことを書きな。 でも、嘘は書くな」


「なんで?」


「偽物と同じになる」


テオは頷いた。


「じゃあ、書く。

 グレン兄ちゃんのタレで、腹いっぱいになりました、って」


「そうしな」


ミレーネは、テオの頭を軽くはたいた。

痛いはずなのに、胸のつかえは少し取れていた。


テオは、机の上の瓶を見た。

ラベルには、英雄の絵も、奇跡の文字もない。

字は小さく、少し曲がっている。


それでも、逃げていない字だった。



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