第118話 責任者グレン
「お兄ちゃん!!」
その日の午後、医務室の扉が勢いよく開いた。
ちょうど上半身を起こしたところで、アレンは顔を上げる。
「テオ? エリュナも」
エリュナが困った顔をしていた。
王都の水関連でテオも何度か学園の病室に足を運んでいた。
「グレン兄ちゃんが――」
テオがその先を言おうとして、しゃくりあげそうになる。
「落ち着いて、一回息吸って」
アレンの声で、テオはぐっと息を吸い込む。
一度だけ吐いてから、ゆっくり言葉を発した。
「……グレン兄ちゃんが、捕まった」
部屋の空気が、すっと冷たくなった気がした。
◇
テオはその日の昼前、兵士の数を数えていた。
一人、二人、三人。
いつものスラムなら、兵士なんてたまに通るくらいだったのに、
ここ何日かは、朝から晩まで、どこかしらの路地に一人はいる。
テオは、兵士たちの歩くほうについていく。
世界樹の枝のある広場へ行ったり、肉屋のほうへ行ったり、焼き場の煙をわざわざ見上げたり。
行く先は、だいたい決まっていた。
「今日もかよ」
「またかよ」
大人たちの小さい文句が、あちこちから聞こえる。
共同水場につくと、並ぶ列は、いつもより長かった。
テオは列の端っこから、「何人待ちか」を指折り数える。
「……二十、二十一、二十二……多っ」
前から、孤児院の子たちが見えた。
ルカが小さな桶を抱えて、ニナがその袖をぎゅっと握っている。
「おーい、テオ!」
声が飛んできた。ルカが桶を頭の上に乗せて走り出した。
桶がぐらぐら揺れて、水が少しだけこぼれていた。
衛生兵がそれを見て近づいてくる。
「おい、その水はどこで汲んだ」
「えっと……あの、大きい水場で……」
ルカが指さした先には、世界樹の枝が据えられている噴水があった。
テオの胸のあたりが、少しだけ誇らしくなる。
あそこは、お兄ちゃんとノエルたち学園組が作った、なにかすごいやつだ。
前よりずっとましな水になっている。
「水を汲む前に、手は洗ったか」
「……洗ってない、です」
衛生兵は眉をひそめて、紙に何かを書き込んだ。
「次からは必ず洗え。
今は、食い物と水の行き来を全部見てる。
手も、桶も、布も、そのうち数えるからな」
「は、はい」
ルカが縮こまる。
テオは思わず前に出て、桶をひょいっと取り上げた。
「次からは、俺が先に洗ってやるよ。な、ルカ」
「……うん」
衛生兵は一瞬こちらを見て、何も言わずに列の先頭のほうへ歩いていった。
世界樹の枝の噴水のまわりには、いつもより人が多かった。
水下り病が広がってから、「とりあえず煮ろ」「汚い水は捨てろ」と、いろいろ言われた。
テオには半分もよくわからない。
でも、アレンたちのなんかすごいやつが入ってから、この水場の水で腹を壊した子は前より減っている。
それだけは、はっきり分かる。みんなここに集まる。
だから、列も、怒鳴り声も、増える。
「なあテオ、あの人たち、何してんの?」
隣で水を待っていたニナが、兵士たちを指さして小声で聞いてきた。
「さあな。紙にいろいろ書いて、ここはよし、ここはだめって決めてるだけだろ」
「だめって言われたら、どうなるの?」
「たぶん、怒られる」
「それだけ?」
「分かんねえよ。でも、グレン兄ちゃんが言ってた。
今度の兵隊は、腹の中まで覗きたがるって」
「こわ……」
ニナが桶をきゅっと抱きしめる。
「でも、あの水は大丈夫だ」
テオは噴水を見上げた。
あれがあるから、スラムの水は前よりましになった。
大丈夫って、エリュナも言ってた。
だからテオは、そこだけは怖くない。
「テオ、なにあれ……」
ニナの言われた方向、《英雄焼き肉》の前には、兵士が三人。
そのあとに、紙をいっぱい抱えた男が二人。
いつもより、偉そうなほうの服を着ている。
急いで戻ると、焼き場の前には、すでに何人か人が集まっていた。
グランツが腕を組んで立っていて、ミレーネがその横で、子どもたちを後ろに下げている。
グレンは、いつもの焼き場に立っていた。
腰に手を当てている。
兵隊たちが何か紙を見せる。
グレンが紙をひったくりかけて、ミレーネに肘で止められる。
「なんだよそれは」
「新しい決まりだ。
水下り病の再発を防ぐための、飲食場への見回りだ」
一番偉そうな兵隊が、偉そうな声で言った。
「こっちはいつもどおりやってるだけだ」
グレンが言い返す。
「水も、あの石のとこから汲んでるし、肉だってグランツのとこからで――」
「いつもどおりが通用しないから、こうして見回りに来ている」
紙を抱えた男が、今度は前に出た。
「この焼き場は、《英雄焼き肉》の名で間違いないな?」
「だから何だよ」
「英雄、奇跡等の名を用いた商品、看板は、別に調べることになっている。
どこから水を引き、どこで肉を捌き、誰が火を扱っているかを、確認させてもらう」
「英雄が焼いてるわけでも、奇跡が肉ひっくり返してるわけでもねえよ」
グレンが、遮るように言った。
「焼いてんのは、このオレだ」
一瞬、空気が止まる。
紙を持った男の眉がぴくりと動く。
「では、責任者はお前か」
「そうだよ。
《英雄焼き肉》。責任者、グレン。文句あるか」
「ならば、同行願おう」
「事情聴取か?」
「そうだ」
紙を抱えた男は、淡々と答える。
「グレン兄ちゃん!」
テオは、思わず前に出た。
ミレーネの手が、テオの肩をつかむ。
「テオ、下がって」
「でも――」
グレンが、テオをちらっと見る。
いつもの「黙ってろ」の目だった。
「ちょっと行ってくるだけだ」
グレンは、肩を回してみせた。
「どうせ、ちゃんとやってるか見せろってだけだろ。見せてやりゃいい」
「でも、捕まえるって――」
グレンは、焼き場を一度だけ振り返って、グランツと目を合わせた。
「任せた」
「おう」
短い言葉のやり取り。
そのあと、グレンは、何も抵抗せずに、兵士たちのほうへ歩き出した。
腕をつかまれたわけでも、鎖をつけられたわけでもない。
でも、グレンの背中は、いつもよりずっと、遠く見えた。
テオは、その背中が角を曲がって見えなくなるまで、一歩も動けなかった。
◇
「……グレン兄ちゃんが捕まった」
医務室に入って、しばらくしてからテオはその言葉をようやく言えた。
「紙いっぱい持ってるやつらが来て、責任者はお前かって聞いて、
グレン兄ちゃんがそうだ”って言ったら、じゃあ来いって」
「事情聴取って言ってたよね」
エリュナが補足する。
ベッドの上のアレンが、驚いた顔をして、すぐに落ち着いた顔に戻る。
「誰がいた? グランツさんは? ミレーネさんは?」
「みんないた。でも、止められなかった」
なんで?なんのため?やっぱり分からない。
そのとき、ノックもそこそこに、扉が開いた。
「アレンくん!」
ノエルだった。
息を少し切らしていて、手には丸めた紙を握っている。
「グレンが捕まったって」
ノエルは小さくうなずいた。
「……やっぱり、現場まで来たんだ」
「現場?」
ノエルは丸めた紙をベッド脇の机に広げた。
「朝の通達の別紙」
そこには、固い字が並んでいた。
『飲食店・屋台・食肉処理場・炭焼き場・水場に対する新基準』
テオが紙をのぞき込む。
でも、よくわからない。
「なんで、グレン兄ちゃんが?」
テオの声が、少し震えた。
「グレン兄ちゃん、ちゃんとやってるよ。
水もアレン兄ちゃんの石のとこから運んでるし、
手も洗ってるし、肉だってグランツ爺のとこからで――」
テオは、唇を噛むしかなかった。
「捕まった理由は、まだちゃんとは分からない」
ただ――」
ノエルは、通達の紙の一番下を指さした。
『英雄・奇跡等の名を冠する商品の取り扱いについては、厳正に審査・監督すること』
「こういう言葉が、今、王都を歩き回ってる」
「……英雄焼き肉」
アレンの声が、かすかに低くなった。
「うん。それと最近、町やスラムで、英雄とか奇跡って名前の商品が出回っているんだ。もしかしたら、それも関係してるかもしれない」
今度は、エリュナがテオの肩に手を置いた。
「まだ、悪いって決まったわけじゃない。
今は、全部調べるって言ってるだけ」
「でも、捕まってる……
グレン兄ちゃんは、悪いことしてないのに」
小さく言うと、誰もそれを否定しなかった。
アレンは、ずっと紙を見ていた。
通達の文字の上を、目だけがゆっくり追っている。
テオは、もどかしかった。
アレン兄ちゃんが本気を出せば、森でも城でもスラムでも、どこでもなんとかしてくれる。
「アレン兄ちゃん」
呼ぶと、アレンがこっちを向いた。
「なんとかしてよ」
アレンは、少しだけ目を閉じて、それから首を横に振った。
「今は、なんともできない」
分かっていた。
でも、今はそれが一番聞きたくなかった。
「……じゃあ、もういい」
テオは、医務室を飛び出した。
◇
「アレンくん、まだある」
ノエルの声が、さっきより低かった。
「……なに」
「《英雄焼き肉》。全部、確認が終わるまで営業禁止だって」
ノエルの言葉が、病室の中に落ちた。
営業停止。
焼き場の火が止まる。
子どもたちの昼の匂いが消える。
グレンは戻らない。
行かなきゃ。
そう思った瞬間、
右足首が、布団の下で冷たく遠くなった。
アレンは、床を見る。
白い線。
三歩先。
牢も、焼き場も、スラムも、全部その向こう側にあった。




