第117話 三歩目の外
朝から、周りが騒がしい。
廊下の向こうで誰かが紙を読み上げている。
同じ文言を、何度も。
アレンが上体を起こしかけると、すぐに医師の声が飛んだ。
「起きるな」
診察板に印がつく。
「何かありました?」
「君には関係ない」
即答だった。
「聞くだけです」
「君の聞くだけは、だいたい足が動く」
医師はため息をついた。
「王都全域に通達が出た。水、食べ物、火を扱う場所の見回りだ」
火を扱う場所。
「……英雄焼き肉も?」
医師は少しだけ黙った。
「今日の君には関係ない」
答えになっていなかった。
医師は診察板を閉じる。
「三歩までだ。外で何があっても、今日の君の仕事は三歩」
扉が閉まる。
廊下の向こうで、また紙の声がした。
水場。
食べ物。
火を扱う場所。
そのどれもが、白い線の向こう側にあった。
◇
こんこん、と扉が二回鳴る。
「……入っていい?」
顔だけ覗かせている。
いい話じゃないときのノエル行動だ。
「うん。どうぞ」
ノエルは医務室に入り、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「顔色、だいぶ戻ってきたね」
「三歩ぶんくらいは」
「単位“歩なの、だんだん板についてきたよね」
前とあまり変わらない。
ノエルはベッド脇の椅子に腰を下ろし、しばらくは本当に他愛もない話をした。
授業の愚痴とか、ゼフィラム学園長がまた変な課題を出したとか。
寮の食堂で、旗戦一歩再現ごっこをやって皿を割った誰かの話とか。
聞いているうちに、少しだけ体の力が抜けていく。
こういうどうでもいい話ができるのは、たぶん、ノエルだけだ。
でも、さっきからずっと膝の上で指先遊びするのが目に入っていた。
何か言いたそうで、言い出しにくそうなときのノエル行動だ。
「……本題は?」
「えっ」
「さっきから、同じところばっかりつまんでる」
ノエルは自分の手を見て、あからさまに顔を赤くした。
「話したほうが楽になるやつなら、聞くよ」
「楽になるかどうかは分かんないけど……うん。話す」
ノエルは一度だけ深呼吸してから、口を開いた。
「オルフェン先生に、こっぴどく言われた」
ノエルは、わざとらしく声を低くして、オルフェンの口調を真似する。
「『水下りのときの、お前たちの働きは認める』」
「『だが、認めると許すは別だ』」
「怖いな」
「『今のお前たちの魔道具は、世界樹の枝を差せば動き、差さなければ止まる置物だ。
それを、魔道具と呼ぶな』って」
心のどこかがちくちく刺される感じがした。
「今、研究会のみんなとレーン先生でいろいろ考えてる」
ノエルは、膝の上で指を強く握りしめた。
「進んでる?」
「……全然」
絞り出すような声だった。
「世界樹が拾ってくれてたゆらぎを、線で再現しようとしてるんだけどね。
やればやるほど、僕らがどれだけ世界樹に甘えてたかが分かる感じ」
ノエルは、背もたれに体を預けて天井を見た。
「だから今、研究室は、ちょっと空気が重い。
すごいことをやったって褒められた直後に、 何も解決してないって突きつけられてるから」
ノエルは、両手で顔を覆いかけて、やめた。
「……ごめん、愚痴っぽくなった」
「愚痴っていいよ。
こっちは、三歩で一日終わるだけだから」
自嘲混じりに言うと、ノエルがこちらを見た。
「三歩?」
「今日の記録。ベッドから白線まで三歩。
四歩目を出そうとしたら、足首が勝手に火の置き場を探して、先生に止められた」
右足を、布団の下で少し動かしてみる。
骨も筋も、もうそこまで痛くはないのに、一歩先に行こうとすると、どこかで「待て」がかかる。
足首の魔法点が、まだ「走る順番」を思い出そうとしている。
「世界樹頼みの魔道具と、魔法点頼みの一歩。あんまり笑えない共通点だね」
ノエルが苦く笑った。
「外は? 水下りのほうは、少し落ちついてきた?」
「うん。噴水や共用水場は、だいぶマシになってる。
でも、全部が全部じゃない。
まだ悪くない水まで行けてないところも多い」
「世界樹頼みの噴水と、歩けない根っこか」
「なんかうまくまとめようとしてない?」
ちょっとだけ、と言おうとして、天井を見上げる。
どこかで「自分は何か変えたんじゃないか」という期待があった。
結局、何も進んでいない。変わっていない。
ノエルが、そんな空気を察したように、少しだけ明るい声をだした。
「でも、全部が止まってるわけでもないよ」
「?」
「グレンくんがさ、商会を立ち上げたんだよ」
「……今なんて?」
ちゃんと聞き返したくなる単語だった。
「アレンくんに負けてられねえって、めちゃくちゃ張り切って。
スラムだって商会くらい名乗っていいだろうがって。
名前も、ちゃんとつけた。 『グレン商会』」
ノエルが、どこか楽しそうに言う。
「何を売ってるの?」
「焼き肉屋のタレ。
あのタレを、グレン商会の商品として瓶詰めして、スラムの露店で売ってる」
ノエルは指で四角を描く。
「まだテント一張りと木箱いくつかだけど、 本人は、ここからがグレン商会の始まりだって」
「英雄焼き肉のタレ、じゃなくて?」
「違う。グレンダレ」
それは、素直にすごいと思った。
「売れてるの?」
「まだ、そこまでじゃないみたい。
英雄焼き肉のタレって名前つけりゃ、もっと楽に売れるんだろうがよって文句言ってるみたい。
でも変えないんだって」
「……言いそうだ」
周りが貼ってくる札を、俺はまだ完全にはがしきれていない。
なのにグレンは、自分で札を作って、そこに自分の名前を書いた。
それが少しだけ悔しかった。
「……四歩目、踏んでるな」
ぽろっとこぼれた言葉に、ノエルが首をかしげる。
「四歩目?」
「俺はまだ三歩で止まってるのに、グレンは勝手に外で四歩目、五歩目を踏んでる」
「うん」
ノエルは、少しだけ真面目な顔になった。
「外で走り出してる人たち、結構いるよ」
「……悔しいな」
自分でも驚くくらい、素直にその言葉が出た。
ノエルが目を丸くして、それから小さく笑う。
「今の悔しい、いいやつだね」
「いいやつ?」
「うん。置いていかれるのが嫌だってやつ。前の自分で、全部なんでもやらなきゃって悔しさと、ちょっと違う」
言われて、少し分かる気がした。
前は、誰かが泣いている場所に自分が走っていけないことが悔しかった。
今は、誰かが自分より先に歩き出していることが、少しだけ悔しい。
でも同時に、それがすごく、嬉しい。
「じゃあ、負けないように四歩目を進まないとね」
ノエルが、わざとらしく拳を握ってみせる。
「歩く四歩も、魔道具の四歩も、どうせアレンくん、まとめて考えるんでしょ?」
「わかった。考えてみる」
「もう、アレンくん」
ノエルは、少し怒った顔をした。
「そこがダメなんだよ」
「え?」
「僕は、手伝ってって言いに来たんだよ。背負ってって言いに来たんじゃない」
その言葉で、少しだけ胸の奥が痛んだ。
「……ごめん。そういうつもりじゃなかった」
「知ってる。だから怒ってるの」
窓の外から、遠くのざわめきがかすかに聞こえる。
世界は、勝手に四歩目を踏み始めている。
だったら、
ここから先の四歩目をどうつなぐかを考えるのは、 まだ布団の中にいる根っこの仕事かもしれない。
グレン商会。
ノエルの魔道具研究会。
世界樹の枝と水。
その先に続く線を、そろそろ引き始めるときだ。
「ノエル」
「なに?」
「オルフェン先生が言ってた、世界樹頼みのところ、もう一回詳しく教えて」
ノエルは一瞬だけきょとんとして、それから、嬉しそうに息を吸い込んだ。
「よし、じゃあ愚痴タイムから課題タイムに切り替えだね」
そう言って、鞄の中から分厚い図面の束を取り出す。
三歩の病室の中で、
外の四歩目の話が、ゆっくりと広がり始めた。




