第116話 火の番 【宰相ヴァルド視点】閑話
「陛下」
宰相ヴァルドは、静かに口を開いた。
「水が落ち着きつつある今こそ、次をお考えになるべきかと」
玉座の上で、アルディオン王が顔を上げる。
「次?」
「後始末でございます」
ヴァルドは、手元の報告書を閉じた。
「水を清めるだけでは足りません。
水を汚すもの。口に入るもの。人が集まる場所。
そこまで目を向けねば、また同じことが起きます」
「うむ」
王は頷いた。
「案をまとめておいてくれ」
「承知しました」
ヴァルドは深く頭を下げる。
王の機嫌は悪くない。
いや、むしろ良すぎるほどだった。
下町の重症者は減り、施療院の寝台には少し余裕が戻った。
兵の欠員も減り、市場にも人が戻り始めている。
水は、王都を持ち直させている。
それ自体は、悪くない。
だが——
「城下では、何と呼ばれている」
王が、ふと思い出したように尋ねた。
「噴水の水だ」
ヴァルドは、少し間を置いて答えた。
「世界樹の奇跡。
学園の水。
王の慈悲。
呼び名はさまざまです」
「そうか」
王は、少しだけ笑った。
「民は好きに名をつけるものだ」
「はい」
ヴァルドは、淡々と続けた。
「中には、“焼き肉屋の少年が考えた水だ”と話す者も」
王の顔が、わずかに和らぐ。
「水で助かり、肉で腹を満たす。
王都の下から満ちていくのは、悪くない」
「はい」
「王都全体のためだ。
後始末の件、任せる」
王が言った。
「御意」
ヴァルドは、頭を下げた。
王都全体のため。
その名目があれば、十分だった。
◇
「まずは、後始末の文案だ」
自室に戻ったヴァルドは、
机の引き出しから別の書類を取り出した。
衛生と税と許可に関する、
堅苦しい文章の束。
人を動かすのに、剣も魔法も要らない。
紙で足りることも多い。
「王都全体の衛生向上のため、
市場、屋台、飲食店、共同炊事場に対する確認を強化する」
ヴァルドは書記官に告げる。
「水場だけではない。
火を扱う場所。肉を扱う者。人を集める場所。
すべて記録に入れる」
書記官が、わずかに目を上げた。
「下町の小規模店舗まで含めますか」
「含める」
ヴァルドは淡々と答えた。
「病は、貴族区の食卓からだけ出るわけではない。
むしろ、記録のない場所から広がる」
「冒険者ギルドには、食肉の流通経路の確認を求める。
衛生局には、焼き場と水場の点検を。
施療院には、食中りと水下り病の症状差を記録させる」
「承知しました」
書記官が、筆を走らせる。
一つ一つは、王都全体のための政策だ。
間違ったことは何もない。
ただ、その網の目の中に、火と肉の店も入る。
孤児院の隣にある、あの店も。
ヴァルドは、書状の端に署名した。
火は放っておけば、やがて燃え広がる。
ならば、番を置く。
「これは王都全体の後始末だ」
「はい」
「だが、見落とすな」
静かに言葉を続ける。
「……決して」
書記官は、それ以上を聞かなかった。
窓の外。
学園の塔を見る。
水は落ち着いた。
次は、火だ。
「火の番だ」




