第114話 水の下を走るもの 【軍団長ガライアス視点】閑話
城下広場の警備任務は、戦場ではない。
喧嘩が起きれば止める。
迷子がいれば拾う。
商人が勝手に露店を出せばどかす。
その程度で済む、まだ分かりやすい仕事だった。
少なくとも、昨日までは。
人と荷車と桶が大量に並ぶ。
兵の怒号が響く。
ざわつきと熱気の波が押し寄せる。
いつもの王都じゃない。
広場の真ん中にある古い噴水が、別物になっていた。
石柱の中を通った水が、上からこんこんと落ちている。
その中心に、一本の枝。
石と金具に守られた、木に見えて、ただの木ではないもの。
世界樹の枝。
ガライアスは、口の中だけで呟いた。
「……誰だ、こんなとんでもねえもんを据えたやつは」
隣に立つ副官が、聞こえないふりをした。
◇
「押すな!」
兵の声が広場に響く。
「桶は一つだ! 一軒につき一杯まで!」
「うちは病人が三人いるんだよ!」
「ならあっちで札をもらえ! 列を乱すな!」
別の場所では、学園の生徒が必死に説明している。
「病を治す水ではありません!
弱った方には少しずつ飲ませてください!」
「でも、隣の子は腹の痛みが止まったって!」
「だから飲みすぎないでください!」
「奇跡の水だ!」
誰かが叫んだ。
それを聞いて、膝をつく老人が出る。
「世界樹様……」
「祈るのは勝手だが、列の真ん中で膝をつくな!」
兵が慌てて抱え起こす。
噴水の反対側では、貴族の使用人が列を抜けて、前に出ようとしていた。
「並べ」
使用人は口を開きかけたが、ガライアスの顔を見て閉じた。
そのとき、別の兵が走ってきた。
「噴水の枝に触ろうとした男を一人押さえました!」
「理由は」
「直接触ればもっと効くと思ったと」
ガライアスは、眉間を押さえた。
「説教して、列の最後尾に回せ」
「はっ!」
さらに別の兵。
「広場の外で、枝水を瓶詰めしたものと称して売っていた商人を捕まえました!」
「中身は」
「ただの井戸水です」
「そのまま、衛生局に渡せ」
ガライアスは即答した。
広場の真ん中。
世界樹の枝。
淡く揺れながら流れていく水。
静かで、美しい。
だが、その周囲は混乱だ。
欲と不安と期待が、全部が噴水へ流れ込んでいる。
ガライアスは低く唸った。
「……水場を一つ作っただけで、これか」
副官が言う。
「効果は出てます。施療院からも報告が」
だから、余計に腹が立つ。
効いているから人が集まる。
人が集まるから警備が要る。
警備が要るから兵が取られる。
兵が取られれば、別の場所に穴が空く。
ガライアスは噴水を睨む。
「……あの小僧」
副官が横目で見る。
「もしかして、イラついてますか」
「……少し任せる」
「え、軍団長?」
ガライアスの後ろ姿は、すでに小さくなっている。
見送るだけとなった副官は、大きなため息をついた。
◇
学園医務室の前に立つのは、二度目だった。
一度目は、御前試合のあと。
あのときの医師の顔は、今思い出しても目覚めが悪い。
「芋虫は寝てるわ」
扉の前で会ったラグナが、肩をすくめる。
「入っても?」
「静かにね。起こしたら殴るわよ」
「文句を言うだけだ」
「それを起こすって言うのよ」
ラグナはそう言いながらも、扉を開ける。
アレンは眠っていた。
拍子抜けするほど。
御前試合のあとに運び込まれたときのような、
血の気の失せた顔ではない。
頬には、わずかに色が戻っている。
呼吸も浅いが、途切れてはいない。
ベッド脇の石皿には、淡く光る石がいくつか並んでいた。
ガライアスは椅子を引き寄せ、ベッドのそばに腰を下ろした。
しばらく、少年の顔を見ていた。
「文句言わないの?」
ラグナが戸口で腕を組んでいる。
「聞こえてない」
ラグナが呆れたように笑った。
ガライアスは、アレンの右足首のほうを見た。
布の下で、形は分からない。
だが、あの日の感触は覚えている。
泥の上。
旗を抱えて走る少年。
最後の一歩。
そして——
旗に届く寸前の一歩を、
自分が叩き切ったという感触が。
今日、広場を見た。
噴水の水を待つ人々。
桶を抱えた父親。
眠れるようになったという子ども。
列を守る兵。
説明する学園生。
そこに、この少年はいなかった。
いないのに、水の下を、あの少年の線が走っていた。
足の中で暴れるのを止めたと思ったら、
今度は外を走らせるか。
ガライアスは、息を吐いた。
「世話が焼ける」
眠っている少年は、少しも動かない。
それでいい。
生きて眠っている。
今日のところは、それで十分だった。
「文句は、起きてからだ」
ガライアスは、静かに医務室を後にした。




