第113話 朝まで眠れる水 【王都民サラ視点】閑話
それから、数日後。
サラは、桶の底に残った水を見つめていた。
少ない。
鍋の横には、細い薪が三本。
濡れた薪を無理に燃やしたせいで、台所にはまだ煙の匂いが残っている。
煮ればいい。
そんなことは、分かっている。
水を煮ろ。桶を洗え。
汚れた水を飲むな。
広場の張り紙にも、施療院の人にも、何度も言われた。
でも、薪がいる。
布団の中で、マルクが小さくうめいた。
「……おなか、いたい」
サラはすぐに振り返る。
小さな身体が、丸まっている。
汗で髪が額に張りついて、頬が赤い。
「大丈夫。ここにいるからね」
額の布を取り替える。
熱い。
隣の布団では、兄のリオが目を覚ましていた。
リオも、少し前まで同じように苦しんでいた。
水を飲んで。
吐いて。
泣いて。
夜に何度も起きて。
サラは、桶の水をもう一度見た。
この水が悪かったのか。
それとも、煮方が足りなかったのか。
桶が汚れていたのか。
あの井戸がもう駄目だったのか。
分からないまま、子どもに飲ませた。
それが、胸の奥でずっと重かった。
戸口のほうで、夫のダンが上着を羽織っている。
「どこへ行くの」
声が、思ったより鋭くなった。
ダンは木桶を手に振り返る。
「城下広場の水場だ。学園が何か入れたらしい」
「何かって、何」
「知らん。板だの、世界樹の枝だの」
サラは、鍋の柄を握ったまま固まった。
「世界樹?」
リオが布団から半分だけ顔を出す。
「でっかい木のやつ?」
「そうだ。エルフの森の、あれだ」
ダンはそう言ったが、本人もよく分かっていない顔だった。
「新しい水場だとよ。いや、古い噴水を作り替えたって話か。
とにかく、前よりましな水が汲めるらしい」
「また?」
サラの口から、勝手に言葉が出た。
「そういう話?」
ダンは黙った。
「飲めば元気になる水。
一滴で熱が下がる水。
病気が逃げる水。
何度聞いたと思ってるの」
スラムのほうでは、昔からそんな水が売られていた。
色のついた甘い水。ありがたい瓶に入った水。
誰かの祈りがこもったという水。
どれも、腹は満たさない。
熱も下がらない。
ただ、買った人間だけが少しだけ夢を見る。
サラは、そういうものが嫌いだった。
「分かってる」
ダンは、桶を握る手に力を込めた。
「だから、見てくるだけだ」
「水で、リオもマルクも苦しんだばかりなのよ」
声が震えた。
ダンは、しばらくサラを見ていた。
それから、少しだけ目を伏せる。
「分かってるさ」
低い声だった。
「でも、どこかには汲みに行かなきゃならん。
この桶の底を見ろ。今日の分も足りない」
ダンは続ける。
「いつもの井戸に並ぶか。遠い水場まで行くか。
それとも、学園が見てる広場に並ぶか」
「……」
「どうせ選ばなきゃならん。
だったら、一回くらい“ましらしいほう”を見てくる」
サラは、鍋の横の薪を見ている。
「リオ」
ダンが声をかける。
「来るか?」
リオは布団の中で少し迷ってから、頷いた。
「……行く」
ダンは桶を持ち直した。
戸口を出る直前、サラは思わず声をかけた。
「変だと思ったら、汲まないで」
ダンは短く頷いた。
「分かってる」
扉が閉まる。
家の中に、マルクの浅い息だけが残った。
◇
ダンとリオが戻ってきたのは、昼前だった。
桶には、たっぷり水が入っている。
「本当に汲んできたの」
「ああ」
ダンは桶を床に下ろした。
水面が揺れる。
サラは、思わず身を乗り出した。
底が見える。
濁りがないわけではない。
けれど、底に沈んだ小さな欠片まで見える。
「……広場の水?」
「そうだ」
リオが横から言った。
「噴水だった。真ん中に枝があった」
「枝?」
「石の奥に入ってた。兵士がいて、触れないようになってた」
リオは少し興奮している。
「学園の人が言ってた。
病を治す水じゃありませんって」
「桶は?」
サラはすぐに聞いた。
ダンは、少し得意げに桶の縁を叩いた。
「ちゃんと洗った」
「一軒につき桶一杯までだって」
リオが付け足す。
「病人がいる家は、別に札をもらうんだって」
サラは黙って桶を見つめた。
「飲んだの?」
サラが聞くと、ダンは頷いた。
「少しな」
「リオは」
「飲んだ」
リオは、自分のお腹を押さえた。
「きゅってしてない」
「今は、でしょう」
サラは桶の前に膝をついた。
水を見る。透明に見える。
「信じなくていい」
ダンが言った。
「俺も、全部信じてるわけじゃない。
でも、いつもの水よりはましだと思う」
そう言って、桶の水をすくい、一口飲んだ。
サラは息を止めて見ていた。
「……どう?」
「水だ」
「それは分かってるわよ」
ダンは、困ったように言った。
「うまく言えん。土臭さが少ない」
サラはコップを受け取った。
手が少し震える。
唇をつける。
冷たい。
「……」
すぐには何も言えなかった。
「母さん?」
リオが不安そうに見る。
「分からない」
サラは、正直に言った。
「でも、今までのよりは……ましな気がする」
そのとき、布団の中でマルクが身じろぎした。
「……のど、かわいた」
サラの胸が締めつけられる。
熱のある子どもは、喉が渇く。
唇が乾く。声がかすれる。
サラは小さな椀を取った。
「本当に、少しだけよ」
自分に言い聞かせるように言った。
マルクの頭を支え、椀を口元へ近づける。
「ゆっくりね」
マルクは、最初は顔をしかめた。
けれど、すぐにその力が抜けた。
一口。
もう一口。
「もういい?」
サラが聞くと、マルクは目を細めた。
「……あったかい」
「冷たい水よ」
「でも、なんかあったかい」
リオが、小さく笑う。
「よかった」
その言葉で、サラはようやく息を吐いた。
◇
夜。
サラは眠れなかった。
マルクは布団の中で、小さく息をしている。
いつもなら、この時間には一度は泣いて起きた。
腹を抱えて、身体を丸めて、サラの袖を握った。
けれど今夜は、寝返りを打つだけだった。
サラは何度も手を伸ばし、額に触れた。
まだ熱い。
治ったわけじゃない。
でも、息が深い。
苦しそうに喉を鳴らすことが少ない。
枕元には、広場の水を入れた椀が置いてある。
飲ませすぎないように、少しだけ。
何度も見た。
毒ではないか。
腹を痛くしないか。
熱が上がらないか。
それでも、マルクは眠っている。
奇跡なんていらない。
一晩で元気にならなくていい。
跳ね起きて走り回らなくていい。
今夜だけでいい。
泣かずに、眠っていてほしい。
マルクが少し動く。
「……おかあさん」
胸が跳ねた。
「お腹痛い?」
マルクは、目を閉じたまま、小さく首を振った。
「……へいき」
それだけ言って、また眠った。
サラは口元を押さえた。
声を出すと、泣いてしまいそうだった。
◇
朝。
窓の隙間から、薄い光が差し込んでいた。
マルクは、まだ眠っていた。
サラは、しばらくその寝顔を見つめていた。
ダンが起き出してくる。
「……どうだった」
声をひそめて聞いた。
「今日も」
少しだけ、声がかすれた。
「並んで」
ダンは黙って頷いた。
「分かった」
「桶、ちゃんと洗って」
「分かってる」
「病人の家の札があるなら、もらってきて」
「ああ」
サラは、布団のほうを見た。
「……朝まで眠れる水なんて」
サラは小さく呟いた。
「そんなものが、本当にあるなんてね」
ダンは、少しだけ笑った。
「奇跡か?」
サラは首を振った。
「ありがたい水よ」
ダンは桶を持ち上げた。
「じゃあ、ありがたい水を、いっぱいもらってくる」
「一軒一杯まででしょう」
「そうだった」
リオが布団の中で、寝ぼけた声を出した。
「母さん」
「なに」
リオは目を閉じたまま、少し笑った。
「きれいな水って、いいね」
サラは、リオの髪をそっと撫でる。
「……そうね」
朝の光の中で、桶の水がかすかに揺れた。




