第112話 一滴で届く場所
「顔、ちょっとしょんぼりしてる」
エリュナが世界樹の枝を抱えたまま、ベッドのそばにいた。
「専用魔道具って言われたのが、効きました」
午前中に学園長が来て、
今さっき、ノエルとオルフェン先生が帰ったところだ。
学園として水下り病対策を正式に扱うこと。
今の板は使い捨て、俺専用すぎること。
いろいろ言われた。
たぶん、必要なことばかりだった。
でも。
「頑張るなっていうけど。でも、みんな俺に、また頑張れって」
「うん」
エリュナは、頷いた。
「アレンの後ろって追いかけたくなるんだよね。
いつも、変なやり方、最初に始めるから」
「……褒めてるんですよね」
「半分はね」
エリュナは、窓の外を見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「ねえ、エリュナ」
「うん?」
「エリュナの癒やしって、どうやっているの」
変な質問だと思った。
でも、聞いてみたかった。
「森の祝福とか、世界樹とか。
何をしてるんだろう、って」
エリュナは、少しだけ考える顔をした。
「世界樹はね」
膝に置いた枝を、指でとん、と叩く。
「森の真ん中で、いつもちょっとだけ水を動かしてる」
「水?」
エリュナは、空中に小さな丸を描いた。
「うん。ずっと中で、巡っているの」
指で、軽く回す。
「前に、世界樹の揺れ、この部屋で感じたでしょ」
「ずっと遠くに張り巡らせた細かい根、大きな幹に生えた小さな枝のまたその先」
エリュナは、言葉を探しながら続けた。
「中心から先まで、少しずつゆっくりと動かしてる感じ」
「エリュナの癒やしは?」
「世界樹から、めぐりを少し分けてもらうの」
エリュナは、あっさり言う。
「ほんの少しだけ、その人の身体にゆっくりと回ってく」
少しだけ間をおいて、
「……アレン、強いヒール嫌がった」
と、ぽそっと付け足した。
「世界樹の根っこで」
胸が、別の意味できゅっとなる。
「……その節は、すみませんでした」
「でも、アレンも好きでしょ。あのめぐり」
それは、はっきり頷けた。
世界樹の枝と、ベッド脇の石皿を、交互に見る。
「強い一発より、ちょっと続くやつのほうが、今の俺には合ってるみたいです」
「世界樹の根っこも……」
エリュナは、つぶやく。
「王都にも置けたらいいのにね」
「……」
その言葉が、 胸の奥にするりと入ってきた。
森の真ん中。世界樹。
水を少しずつ回していく——
「ありがとう、エリュナ」
思わず、そう言っていた。
「え、冗談だよ。アレン」
わかってる。
でも——
できるのかもしれない。王都の水でも。
◇
夕方。
医務室が少し静かになったころ。
ベッド脇の小さな台の上に、
ノエルが置いていった紙束がある。
スラムでの記録。
水瓶ごとの変化。
板に刻んだ陣の写し。
魔石の減り方。
「よいしょ」
上半身だけ、少し起こす。
胸が、ぎち、と抗議したけれど、
三歩テストのときほどではない。
台の上の紙を、一枚手に取ろうとして——
欲しい紙が、束の真ん中にあることに気づいて止まる。
「……」
「なに、芋虫が紙に絡まってるの」
そう言いながらも、
ラグナさんは紙束をひょいと取り上げた。
「どれ」
「真ん中あたりの、陣の写しです」
「はい」
「……ありがとうございます」
紙を受け取りながら、なんとなく胸の奥がざわっとした。
必要なものを取り出すのに、全部を動かさないといけない。
今の板も、たぶん同じだ。
全部、俺の感覚で一枚の線にまとめている。
使えた。
確かに、スラムの水は変わった。
でも。
オルフェン先生に言われた通りだ。
誰もいじれない。魔石も取り外せない。
「アレン?」
ラグナがこちらを見る。
「大丈夫です。考えてるだけです」
「考えるのもほどほどにしなさい」
「はい」
返事だけして、紙を見る。
誰かが見ても分かる形。
だったら、まずは浄化だけ。
「統合じゃなくて……標準」
言ってから、自分で少し笑いそうになった。
今までの俺の線は、
見えるから、足した。
分かるから、曲げた。
通るから、短くした。
でも、他の人にはそこが見えない。
なら。
「見えるように描けばいい」
誰かが指で追えるように。
ノエルが説明できるように。
オルフェン先生が、嫌そうな顔をしながらでも直せるように。
余計な分を、俺だけの感覚のままにしない。
「最初から、描く」
統合陣じゃない。
「魔導基盤に、浄化陣を刻む」
言葉にすると、少しだけ形が見えた。
「……これなら、説明できる」
◇
まず、浄化魔法陣。
中央には魔石。
でも、全部を動かすためじゃない。
「魔石は、起こすだけ」
小さく呟く。
眠っている水を、最初に少し揺らす。
浄化陣を目覚めさせる。
ずっと押し続けたら、魔石がすぐに空になる。
必要なのは、最初の一押し。
「じゃあ、そのあと」
視線が、ベッド脇に目が向く。
静かにそこにあるもの。
「世界樹の枝は……板の下に添える」
削らない。刻まない。
森の根っこみたいに、周りのマナを少しずつ拾う。
拾ったものを、水の揺れに混ぜる。
ちょっとだけ、流れを途切れにくくする。
「……世界樹に、甘えてるな」
今は、それでいいのかもしれない。
全部を一人で背負わない。
全部の役目を、一つの陣に押し込まない。
足りないところは、借りる。
世界樹から。学園から。ノエルやエリュナから。
「一か所で、少しだけ揺らす」
一番たくさんの水が通る場所。
みんなが汲みに来る場所。
そこを、世界樹の根元みたいにできれば。
水は、そこから広がる。
桶に入って。
鍋に入って。
布を洗って。
喉を通って。
一歩で届いた場所は、もう踏めない。
でも——
「一滴で届く場所は、
まだ増やせるかもしれない」
走らなくても。
線を描くだけで。




