第109話 寿命と再現性
ノエルは、ノックする前に一度だけ胸を押さえた。
鼓動がうるさい。
短く息を吐く。
「……失礼します。ノエルです」
扉を叩くと、すぐに返事が返ってきた。
「入れ」
◇
オルフェン先生の研究室は、相変わらず紙と石と本の山だった。
机の上に広げられた魔法陣。
その隣に、ぎっしり書き込みの入ったノート。
先生は、羽ペンを指で回しながら、ちらりとこちらを見る。
「顔がうるさいな」
ノエルは、苦笑いを浮かべた。
「スラムの子どもたちが、少し元気に——」
「今は魔道具のことだけ言え。使えたのか」
きっぱりと言われる。
ノエルは、背筋を伸ばした。
「はい」
「水の匂いが軽くなりました」
オルフェン先生は、それ以上は聞かなかった。
「ならば、そこから先は“どう回し続けるか”の話だ」
羽ペンの先が、机をとん、とんと叩く。
「出せ。板だ」
ノエルは、胸に抱えていた包みを机の上に置いた。
薄く削った陶板。
そこに刻まれた、浄化と流れを重ねた陣。
オルフェン先生は、陶板を一枚手に取り、指でなぞる。
「少しは頭を使ったようだな」
ノエルは、息を止めた。
「……届く形には、なっている」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。評価を述べただけだ」
先生は陶板を机に戻す。
「ただし」
声が、少し低くなる。
「これはまだ、生活を支える魔道具ではない」
ノエルは、陶板を見下ろした。
「でも、これで変わりました」
「だからこそだ」
オルフェン先生は、机の引き出しを一つ開けた。
中から、小さな木箱を取り出す。
「それ魔石ですか」
「クズ魔石だ」
「正式な実験には揃いが悪い。授業用には癖が強い。
だが、水瓶の底で少し働く程度なら使える」
ノエルは、箱の中を見つめた。
「レーン先生が、研究室の余りだって言っていた魔石は、もしかして……」
「勘違いするな」
先生の声で、ノエルは我に返る。
「これで足りると言っているわけではない」
羽ペンが、陶板の端を軽く叩く。
「魔石は削れる。板も傷む。水は毎日汚れる。
今日動いたものが、明日も同じように動く保証はない」
「……はい」
「魔道具は、一撃の大魔法ではない。
日々の生活の下で回り続ける“回路”だ」
先生は、真正面からノエルを見た。
「壊れても、詰め替えて、また動き出す。
多くの者が、仕組みを知らずとも使える」
その声は、いつもより静かだった。
「……今の板は」
オルフェン先生は言った。
「成功した実験だ。まだ、道具とは呼べない」
ノエルは、唇を噛んだ。
痛かった。
でも、まっすぐ刺さる痛みだった。
「はい」
先生は、陶板の中心に刻まれた線へ視線を落とす。
「もう一つ」
ノエルは、身構えた。
「アレンの線だ」
その名前が出た瞬間、胸が鳴った。
「嫌いですか」
「嫌いだ」
即答だった。
「美しすぎる」
オルフェン先生は、ため息を吐いた。
「この線を見て、きれいだと言う者はいるだろう。
だが、なぜそうなっているかを、自分の言葉で説明できる者はいるのか」
ノエルは、何も言えなかった。
自分だって、完全には説明できない。
アレンくんがどこを見て、どこを削って、どこを残したのか。
追えるところと、追えないところがある。
「魔道具は、一人の天才の手癖に頼ってはならん」
先生は、静かに言った。
「誰もが理解する必要はない。
だが、次に作る者が迷子にならない程度には、構造を開いておく必要がある」
オルフェン先生は、羽ペンを置いた。
「寿命。そして、再現性」
二つの言葉が、机の上に落ちた。
「今のお前たちに、足りてないものだ」
ノエルは、その二つを胸の中で繰り返した。
寿命。
再現性。
「お前も魔道具師を名乗りたいなら、その二つから逃げるな」
「……はい」
先生は、窓の外に目を向けた。
「スラムで子どもたちが元気になった、という話だが」
「私は、何のために研究している」
ノエルは、答えられなかった。
「人を豊かにし、人の命を守るためだ。
それ以外の魔法理論など、何の価値もない」
「その延長に、今の板と石がある。
そして、それを形にするために、我々魔導士がいる」
ノエルは、胸が熱くなるのを感じた。
「そのためには、お前が持ってきたこの板と紙束で十分だ」
ノエルは、小さく笑って、頭を下げた。
「近いうち」
オルフェン先生は、箱の蓋を閉じた。
「学園長室でもうるさい話になる。
その前に、お前の頭の中を整理しておけ」
「はい」
研究室を出て、廊下に出る。
ノエルは、胸に抱えた陶板を見下ろした。
アレンくんの線。
オルフェン先生の課題。
スラムの水瓶。
子供たちの笑い声。
全部が、頭の中でぐるぐるしている。
少しだけ震えていた。
でも、それは恐怖だけじゃなくて、期待の震えでもあった。
「アレンくん」
誰もいない廊下で、こっそり名前を呼ぶ。
「僕も、こっちから走ってみるね」




