第108話 本物のただの水
朝から、路地がざわざわしてた。
「エルフの嬢ちゃんが、また来たぞ!」
「ちっこい石つけた、へんてこな板持ってた」
耳が勝手にそっちを向く。
「……エリュナ姉ちゃん?」
肉運びの手伝いをしてた俺は、木箱を置いた。
子どもの家の前の空き地を抜けて、
いつもの水瓶のとこまで走った。
◇
井戸じゃない。
スラムの真ん中にある、でかい水瓶のほう。
共同で使ってるやつだ。
そこに、エリュナ姉ちゃんがいた。
その横に、ノエル兄ちゃんも立ってる。
「おいおい、なんだよ今日は学園見学か?」
先に声をかけたのは、やっぱりグレン兄ちゃんだった。
腕を組んで、にやにやしている。
「で、その変なのはなんだ?」
エリュナ姉ちゃんの手の中には、 薄い板と、小さな石があった。
焼いた土の板。
英雄焼き肉の陶板に似てるけど、もっと小さい。
上には、ぐるぐるの線が描いてある。
「きれいな水にするやつ」
エリュナ姉ちゃんが、あっさり言った。
「アレンが考えた」
その一言で、胸の奥がどくんと鳴った。
「……お兄ちゃんが?」
「うん」
エリュナ姉ちゃんは、にこっと笑った。
「おいおい」
グレン兄ちゃんが、肩をすくめる。
「そんなきたねえもの持ってきて、きれいにしますとか、
夢みたいな話するんじゃねえよ」
中の水は、いつも通り、
ちょっと濁ってて、底が見えない。
「ついに治療諦めて、頭おかしくなったか?」
「グレン兄ちゃん!」
思わず声が出る。
「エリュナ姉ちゃんは、本気で——」
「本気で夢見てる奴が一番タチ悪いんだよ」
グレン兄ちゃんは、俺の頭をくしゃっと撫でた。
「いいか、テオ」
顔が、少しだけ真面目になる。
「俺たちスラムを助けるやつなんていねえ。
それが当たり前なんだ」
「……だから、アレン製」
エリュナ姉ちゃんは、きっぱり言った。
きょろきょろと周りを見回す。
「水瓶、これだけ?」
「ここのが一番ひどい」
誰かが答える。
「じゃあ——」
エリュナ姉ちゃんは、小さく息を吸った。
焼いた土の板を、一度だけ胸の前で握る。
それから、
どぼん。
遠慮なく、水瓶の中に落とした。
「お、おい!?」
グレン兄ちゃんが叫ぶ。
「やめろ、俺たちの水だぞ!」
エリュナ姉ちゃんは、にこっと笑った。
「見てて」
◇
みんな、一斉に水瓶を覗き込む。
俺も、背伸びして縁に手をかけた。
濁った水。
底が見えない。
でも、しばらくすると——
「……あれ」
誰かが、小さく言った。
水面に、小さな輪っかがいくつも生まれる。
さざなみみたいに。
でも、それだけじゃない。
揺れるたびに、
水の色が、ほんの少しずつ変わっていく。
「おお……」
最初に声を出したのは、小さい子だった。
「なんか、すげー」
「透明になってきた」
井戸じゃないこの水瓶で、 底の石が見えるなんて、初めてだった。
グレン兄ちゃんが、腕を組む。
「《浄化》か」
ノエル兄ちゃんが、小さく頷く。
「うん。……でも、ちょっと工夫してる」
ノエル兄ちゃんの説明してくれなかった。
たぶん聞いてもわからないと思うけど——
少なくとも、水は、ほんとにきれいになっていってた。
「どんどん行くよ」
背中の袋から、今度は別の小さな板を取り出す。
さっきのより薄くて、端に小さな魔石がはまっている。
「小さい水瓶用」
「おい、待て——」
グレン兄ちゃんが言い終わる前に、エリュナ姉ちゃんは同じように落とした。
「お前なあ!」
「大丈夫」
エリュナ姉ちゃんは、平然としている。
「これも、アレン製」
「……」
言葉に詰まってるグレン兄ちゃんを見て、
ちょっとだけスッとしたのは、内緒だ。
みんな、また水瓶を囲む。
さっきより人数が増えてる。
「コポコポいってる……」
「よし」
エリュナ姉ちゃんが、小さく息を吸う。
ノエル兄ちゃんが、ちょっと不安そうにしながらも、こくんと頷く。
「じゃあ、これ飲んでみて」
エリュナ姉ちゃんが、小さい水瓶の水を、コップに汲んだ。
一番前にいた子が、顔をしかめる。
「これ飲めるの?」
「わざわざ飲むもんじゃねえよな」
別の子が笑う。
「違うよ」
エリュナ姉ちゃんが、コップを持ち上げる。
「これ、アレン製」
「……」
一瞬、空気が止まった。
「だったら、なおさら怖えよ」
大人がぽつりと言う。
「呪いの子の道具とか、飲んだら何起きるか分かんねえだろ」
「お兄ちゃん、呪いじゃない」
思わず言ってた。
でも、子どもたちは顔を見合わせるだけで、誰もコップを取ろうとしない。
エリュナ姉ちゃんは、困った顔になった。
「飲むなら、少しだけ」
ノエル兄ちゃんが言った。
「学園でも試した。でも、ここの水でどうなるかは、ちゃんと見たい」
「私も一緒に飲むから」
エリュナ姉ちゃんの手が、少しだけ震い始めたのを見て。
ぐっと、足が前に出た。
「貸して」
エリュナ姉ちゃんの手から、コップをひったくる。
「バカ、やめろ!」
グレン兄ちゃんが叫ぶ。
ごく、ごく、と飲む。
「テオ!やめろって!」
袖を引っ張られる。腕を引かれる。
でも、絶対口を離さない。
最後の一滴まで、ちゃんと飲み干す。
「ぷはーっ」
グレン兄ちゃんが詰め寄ってくる。
「大丈夫か。腹はよ、あとから来るんだ」
「……」
自分の腹を、押さえてみる。
きゅっとなる感じは、なかった。
それより——
臭くない。変な匂いもしない。
ただ、喉の奥が、すうっと流れていく。
「うまい」
一番最初に出たのは、それだった。
「なんか、ただの水」
「はあ?」
一斉にツッコミが入る。
「うんと、だから」
言葉を探す。
「ちゃんとした水……」
「何だ、それ」
自分でもよく分からない。
でも、エリュナ姉ちゃんが、にっこり笑った。
「アレン製」
そればっかりだな、この人。
ノエル兄ちゃんが、額を押さえる。
「エリュナ、もうちょっと説明——」
「うん」
エリュナ姉ちゃんは、少し目を輝かす。
「これは、きれいにする」
小さい水瓶を指さす。
「アレンが、世界樹の真似してみたって言ってた」
「底が見えて、匂いが軽い、ちょっときれいな水」
エリュナ姉ちゃんは、俺の顔を見た。
「テオは、どう?」
「俺は——」
胸のあたりを、もう一度押さえる。
「土の味しない。もっと飲める」
ぽろっと出た。
「……」
一瞬、静かになった。
それから——
「俺も飲む!」
一番前にいた子どもが、コップを掴んだ。
「おいおい!」
「さっきまでビビってたくせに!」
「テオが平気なら、いけるだろ!」
「あたしも!」
「ずるい!」
ノエル兄ちゃんが慌てる。
「ちょ、ちょっと待って。
まだ試作品だから——」
エリュナ姉ちゃんは、あっけらかんとしていた。
「アレン製。だから大丈夫」
「そこ、もうちょっと慎重に言って……」
ノエル兄ちゃんの声は、半分かき消された。
◇
しばらくして。
大きいほうの水瓶の周りは、 いつの間にか、別のざわめきになってた。
「顔洗っても、泥臭くねえ」
「これでルカの布を洗える」
「これでスープを作れる」
エリュナ姉ちゃんが、慌てて制限をかける。
広場の端で、子どもが笑顔になる。
尻尾をぶんぶん振ってるのは——
たぶん、俺だ。
「テオ、飲みすぎだ」
グレン兄ちゃんの声が飛ぶ。
「平気!」
本当に平気だった。
◇
少し落ち着いた頃。
水瓶の前で、グレン兄ちゃんが、魔導基盤を一つ拾い上げた。
濡れた表面を、指でなぞる。
「……もしかしてよ」
ぼそっと言った。
「それ、水をわざと動かしてんのか?」
ノエル兄ちゃんが、目を丸くする。
「ほんと、あいつの発想ムカつくんだよ」
グレン兄ちゃんは、吐き捨てるみたいに笑った。
「グレン兄ちゃん」
俺は、思わず袖を掴む。
「これ、夢じゃないよな」
「は?」
水瓶を指さす。
「俺たちでも、これからちゃんと本物の水が飲める」
グレン兄ちゃんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ふっと笑う。
「……まあ」
頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。
「ちょっとは、マシになった」
それは、最大級の褒め言葉だった。
「よし」
グレン兄ちゃんが、子どもたちのほうを向く。
「お前ら、ルール決めるぞ!」
「一日何杯までか。 誰が先か。
どうやって水瓶守るか」
「本物の、ただの水なら——
ちゃんと続くように使わねえとな」
「はーい!」
一斉に手が上がる。
エリュナ姉ちゃんを見ると、小さく笑ってた。
ノエル兄ちゃんは、ほっとしたような、疲れたような顔をしてた。
◇
夜。
布団の中で、天井を見上げる。
今日一日、何度も水瓶を見に行った。
底の石が見えるたびに、変な感じがした。
ここにあるのは、夢の水じゃない。
誰かをだます水でもない。
「……やっぱさ」
小さく呟く。
「お兄ちゃん、すげえや」
本物なんだ。
ごっこじゃない。
「だから、早く起きろよ」
誰にも聞こえない声で言って、目を閉じた。




