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初級魔法しか取り柄がない!!  作者: なるっち
7章 王立ヴィクリィール学園編 ― 水の巡り

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第104話 森の祝福

王都の中心から少し外れるだけで、

空気の匂いが変わった。


煮炊きの煙。

それから、雨で薄まった汚水の匂い。


エリュナは、世界樹の枝を胸に抱え直した。


森にも、腐った匂いはある。

落ち葉が重なり、獣が死に、湿った土の下で、

少しずつ次の命に戻っていく匂い。


けれど、ここは違う。


戻る場所を失ったものが、

路地の隅に溜まっている匂いだった。


「顔に出てるぞ」


少し後ろから、リュシュアの声。


エリュナは慌てて首を振る。


「出てない……」


「出てる」


リュシュアは弓を背負ったまま、周囲へ目を向けている。


近くを歩いているのは、学園医務室から同行した若い施療師。

その人は布袋を肩にかけ、薬草と布と記録板を抱えていた。


本来なら、王都下町の施療院へ向かうはずだった。

けれど報告が重なり、スラム側の確認を優先することになった。


下町の井戸。共同水場。

孤児院。スラム側の水瓶。


症状の出た場所が、少しずつ線でつながっていく。

エリュナには、その線が見えるわけではない。


でも、アレンなら。

そう思って、すぐに胸が詰まった。


「エリュナ嬢」


若い施療師が、小声で言った。


「この先です。孤児院《子どもの家》は」


「はい」


名前は聞いていた。

アレンが王都で、拾われた場所。

路地を曲がると、小さな建物が見えた。


古い。

壁には補修の跡がいくつもある。

窓枠は少し歪んでいて、入口の横には水瓶が並んでいた。


その水瓶の前で、何人かの子どもが座り込んでいる。

一人は桶を抱え、顔を青くしていた。


「ミレーネさん!」


施療師が声を上げる前に、扉が開いた。

出てきたのは、疲れた顔の女性だった。

けれど、目は倒れていない。


「学園の人かい?」


「はい。医務室から。こちらはエリュナ嬢、エルフの——」


「アレンの知り合いだね」


ミレーネは、エリュナを見て、少しだけ表情を緩めた。


「来てくれてありがとう。アレンは?」


エリュナは、枝を握る手に力を込めた。


「来られません」


「……そうかい」


ミレーネはそれ以上聞かなかった。


「中へ。今朝から三人増えた。熱が高い子は奥だよ」


建物の中は、外より少し暗かった。

床は拭かれ、布も洗ってある。

水瓶にはきちんと蓋がされている。


それでも。

布が。水が。きれいな空気が足りてない。


奥の寝台に、額に濡れ布をした

小さな男の子が横になっているのが見える。


頬は赤い。唇は乾いている。

苦しそうに、小さく息をしていた。


「ルカ」


ミレーネが名前を呼ぶ。

男の子は目を開けなかった。


エリュナは、寝台の横に膝をついた。

世界樹の枝を、そっと胸元に置く。


ルカの額に手を置いた。

熱い。


森なら。世界樹の近くなら。

小さな精霊たちが、湿った土から、葉の裏から、根の隙間から、

息を合わせるみたいに寄ってくる。


でも、ここにあるのは、重い空気と、濁った水の匂い。

エリュナは目を閉じる。


「森の祝福を」


祈りに近い。


少しだけ、眠れるように。

熱に食べられないように。

身体が、自分の力を思い出せるように。


エリュナの手の下で、淡い光が揺れる。

強くはない。吹けば消えるような光。


ルカの眉間の皺が、ほんの少しだけ緩む。

苦しそうだった息が、少しだけ深くなる。


「……ん」


小さな声。


「ルカ」


ミレーネが息を呑む。


「……みず」


かすれた声。


施療師が慌てて水を取ろうとした。

エリュナは、水瓶のほうを見る。

重い。古い。何かが混じっている。


「その水は」


エリュナが言いかけると、ミレーネが苦く笑った。


「煮た水は、もうほとんどないよ」


「煮れば、いいんですね」


「薪がいる。火がいる。鍋がいる。見ている人手がいる」


ミレーネは、静かに言った。


「全部、少しずつ足りないんだ」


エリュナは、言葉に詰まった。


森では、水は流れている。

枝葉に落ちた雨は、土へ染みて、根を通り、清い流れへ戻る。


火を起こす木もある。

薬草もある。

手伝ってくれる者もいる。


ここには、全部があるようで、全部が足りない。


施療師が持ってきた小さな水筒から、

少しだけ水をルカに飲ませる。


ルカは、ほんの少し飲むと、また目を閉じた。

今度は、さっきより楽そうに眠っている。


「……すごい」


部屋の隅で、誰かが呟いた。


子どもの声だった。


「エルフの癒やしだ」


その言葉に、エリュナの胸が小さく痛んだ。

違う。これは癒やしじゃない。


熱を消したわけじゃない。

病を追い払ったわけじゃない。

ただ、ルカの身体が少しだけ戦いやすくなるように、背中を押しただけ。


「まだ、治ってない」


エリュナは言った。


「眠れるようにしただけ。水と、休む場所がいる」


「それでも助かるよ」


ミレーネの声は、優しかった。


「眠れるだけで、子どもはずいぶん違う」


その言葉に、少しだけ救われそうになる。


そのときだった。

外で、桶の倒れる音がした。


「ミレーネ姉ちゃん!」


別の子どもが駆け込んでくる。


「ニナが吐いた! さっきまで大丈夫だったのに!」


ミレーネの顔が変わる。施療師が荷物を掴む。

エリュナも立ち上がろうとして—— 

膝が少し揺れた。


一人。

たった一人に手を当てただけなのに。


森より、ずっと重い。

世界樹から遠い。


「行けるか」


リュシュアの声が、戸口から聞こえた。

中には入ってこない。

約束通り、少し離れて見ている。


エリュナは頷いた。


「行く」


外へ出ると、入口の横で女の子がうずくまっていた。

年はルカより少し上。

口元を布で押さえ、肩を震わせている。


水瓶のそばには、こぼれた水。

その水が、地面の汚れと混じって、小さな濁っていた。


エリュナは、女の子の背に手を置く。


「大丈夫。ゆっくり息して」


自分でも分かるくらい、声が揺れていた。


森の祝福。


淡い光が、指先に灯る。

けれど、さっきより薄い。


ニナの震えは少しだけ収まる。

でも、顔色は悪いまま。


施療師が腹を押さえ、舌を見て、記録板に書き込む。


「同じ症状です。水下り病で間違いない。水は?」


ミレーネが答える。


「朝、共同水場から汲んだ分です」


「煮た?」


「小さい子用は煮た」


「全部は無理なんだ」


答えたのは、奥から出てきた大きな男だった。

片腕に薪束を抱えている。


グランツ。


アレンから聞いていた名前だ。

元冒険者で、焼き肉屋を手伝っている男。


「薪が足りねえ。濡れた薪は煙ばかり出る。

 井戸の前も混んでて、水を汲むだけで半日だ」


その後ろから、少し大きい少年も顔を出した。

グレンという子だろう。


「王都の中心に行きゃ、まだマシな水はある。

 でも、ここから桶抱えて、何往復もできるやつが何人いると思う?」


エリュナは答えられない。


「ガキは無理。年寄りも無理。働きに出てるやつは時間がない。

 で、近場の水を飲む。腹を壊す。寝込む。

 余計に水を取りに行けなくなる」


グレンは、濁った水筋を靴先で避けた。


「貧乏ってのはな、だいたいこうやって輪っかになる」


輪っか。

エリュナは、その言葉を見た気がした。


汚れた水。病気。働けない。

薪が買えない。水を煮られない。

また汚れた水。


森の蔓みたいに絡まっている。

森の蔓なら切れる。

でもこれは、どこを切ればいいのか分からない。


「エルフ姉ちゃん」


小さな声がした。

振り向くと、獣人の少年が立っていた。


ボロマント。たぶん、テオって子だ。


「お兄ちゃんは?」


アレンのことだろう。


「来られないの」


「……そっか」


テオは、床を見る。

それから、強がるみたいに鼻を鳴らした。


「じゃあ、なんか言ってた?」


「心配してた」


「それだけ?」


「行きたそうだった」


テオは、少しだけ口を曲げた。


「お兄ちゃんなら……」


声が震えていた。

エリュナは、何も言えなかった。


「俺、案内する」


テオが言った。


「水場とか、倒れてるやつがいる家とか、分かる」


ミレーネが止めようとする。


「テオ、あんたも無理するんじゃないよ」


「走らない。案内だけ」


「その言い方、誰に似たんだか」


グレンがぼそっと言う。

テオは聞こえないふりをした。


エリュナは立ち上がる。

アレンは歩けない。

だから、歩ける自分が行く。


けれど路地へ入ってすぐ、

その考えが甘いことを知った。


狭い。暗い。人が多い。

古い木箱。倒れた桶。

壁際に座り込む老人。


泣き疲れて眠っている子どもが見える。

その横で、まだ小さな子が水を飲もうとしている。


「待って」


エリュナは駆け寄った。

水の入った椀を持つ手を、そっと止める。


「これは、どこの水?」


「そこの水瓶」


子どもが指さす。


水瓶には蓋がない。

中の水は、薄く濁っていた。


エリュナは施療師を見る。

施療師は首を横に振った。


「じゃあ、何を飲めばいいの」


子どもが言った。

エリュナは答えられない。


森の祝福では、水は増えない。

枝を抱えていても、清い泉が湧くわけではない。


エリュナは、持っていた水筒を差し出す。

子どもは、それを両手で受け取って、少しだけ飲んだ。


一人に渡せば、次の一人の分はない。

そのことが、重かった。


次の家。

熱のある老人。


次の路地。

腹を抱える少年。


エリュナは手を当てて祈った。

森の祝福を薄く流す。


熱が少し下がる。

呼吸が少し落ち着く。

感謝される。


でも、次の声がすぐに来る。


こっちも。あの子も。うちのお母さんも……

水、どうすればいい?薪がない……

井戸が混んでる……

中心まで行けない……


世界樹の枝を強く握りしめる。

けれど、応えは返ってこない。


夕方近くになって、孤児院へ戻ったとき、

ルカはまだ眠っていた。

少し楽そうだった。


それを見て、エリュナはほっとした。


「よかった」


そう呟いた直後、ミレーネが静かに言った。


「ありがとう。あの子は今夜、眠れる」


エリュナは頷こうとした。


「でもね、明日また同じ水を飲めば、また倒れる」


ミレーネの言葉が、胸に刺さった。


……じゃあ、どうすれば。


グレンが、水瓶の横に腰を下ろしている。

いつもの軽い笑みはない。


「足りねえんだよ」


彼は、ぽつりと言った。


「薬でも、祈りでも、英雄でも、足りねえ」


エリュナは、世界樹の枝を抱きしめる。


「じゃあ、何が」


グレンは、水瓶を指で叩いた。

こん、と鈍い音がする。


「水だ」


短い言葉だった。


「まず、水だ。

 毎日飲むやつ。飯に使うやつ。傷を洗うやつ。

 そこが腐ってりゃ、何度でも戻ってくる」


水。


エリュナは、水瓶を見る。


「……わたし」


声が震えた。


「少し、楽にすることはできます」


誰も急かさなかった。


「でも、全部は」


自分の手。

その手で、今日は何人に触れただろう。


十人には届かない。

けれど、この路地にはもっといる。


隣の路地にも。その向こうにも。


言葉の先が詰まる。

ミレーネが、そっと頷いた。


「一人で全部救える人なんて、いないよ」


優しい言葉だった。


手が足りない。力が足りない。

森が遠い。


「アレンなら」


思わず、声に出ていた。

グレンも、少しだけ口元を歪めた。


「あいつは、そういうやつだな」


違う。

エリュナは首を振った。


アレンなら、ではない。

来られない。走れない。魔法も使えない。

扉までの数歩が遠い。


なのに、また全部をアレンに戻そうとしている。

言葉にならないものが、胸の奥で絡まる。


そのとき、外でまた子どもが咳をした。

エリュナは立ち上がる。


「もう一人、見ます」


ミレーネが止めようとした。

けれど、エリュナは首を振る。


「治せるとは言いません」


もう、アレンとは言わない。


「でも、今夜眠れる子を、一人でも増やします」


それしかできない。

エリュナはもう一度、路地へ出た。


王都の空は、森よりずっと遠い。

世界樹のざわめきは、聞こえない。


それでも、一人ずつ。

届くところまで。


届かない場所が、どれほど多いかを知りながら。




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