第103話 三歩先
「三歩だ」
学園医師は、床に白い線を引いた。
医務室の床。
ベッドから、ほんの少し離れた場所。
子どもでも、何も考えずにまたげるような距離。
その線が、今の俺の目標だった。
「そこまで歩いて戻る」
医師は、杖を一本、ベッド脇に立てかけた。
「走らない。跳ばない。魔力を動かさない。
足に火を置こうともしない」
「……歩くだけってことですね」
「今の君には、歩くだけでも試練だ」
医師は、俺の顔を見た。
「途中で胸が詰まる、足の感覚が遠くなる、吐き気がする、熱が上がる。
どれか一つでもあれば、止める」
「はい」
「自分で続けられると思っても、止める」
「……はい」
ラグナさんが壁際で吹き出しかけた。
「いい子ね、芋虫」
「まだ芋虫なんですか」
「立てたら蛹くらいにはしてあげるわ」
「成虫まで遠いですね」
「今のあんたには、扉より遠いわよ」
少しだけ笑いそうになる。
ベッドの端へ手を置いた。
その瞬間、胸の奥が少しだけ硬くなる。
「魔力を動かすな」
医師の声が飛ぶ。
「まだ何もしてません」
「しようとした」
していない。
でも、たぶん違う。身体が勝手に探した。
右足首。火の置き場。いつもの場所。
「……すみません」
「謝る必要はない」
医師は、淡々と言った。
「ただし、その癖を直さない限り、君は歩けない」
歩けない。
言葉が、床に落ちたみたいだった。
「始めるぞ」
医師が言う。
俺は頷いて、杖を手に取る。
こつ。
乾いた音。
一歩目。
大丈夫。まだいける。
右足首は、ついてくる。
二歩目。
肩に力が入る。
左足が勝手に右足をかばう。
腰が、踏み込みを拒む。
まだ、大丈夫。
そう思った瞬間、医師の目が細くなる。
「ゆっくり」
言われなくても、速くなんて動けない。
三歩目。
白い線が近い。ただ、足を出すだけ。
それなのに身体は、勝手に昔の歩き方を探した。
一瞬だけ、身体を軽くする。
その順番が、頭より先に走った。
「っ……」
息が止まる。
右足首が、すっと遠くなる。
白い線が、にじんだ。
「そこまで」
医師の声が飛ぶ。
同時に、エリュナが俺の手首を握った。
「……また、迷っちゃう」
俺は、杖に体重を預けたまま、息を整えようとした。
そこまでだった。
ラグナさんが横に回る。
リュシュアさんも、いつの間にか壁から離れていた。
「大丈夫です」
「大丈夫な者は、そういう声を出さない」
医師は容赦なく言う。
二人に支えられながら、ベッドへ戻される。
腰を下ろすと、身体のどこかがほっとした。
俺より先に、身体が諦めている。
「……情けないですね」
ぽつりと出た。
リュシュアさんが言う。
「情けないんじゃない」
顔を上げる。
「身体のほうが、お前より先に学習しただけだ」
「……学習」
「このまま行けばダメになる。
そう覚えたんだろう」
言葉が、胸の奥に沈む
三歩目の手前。
俺が越えられなかった線。
その扉の先を見ていた。
早足。低い声。
扉の外が騒がしくなった。
「下町の井戸、三か所で同じ症状です」
「施療院の寝台が足りません」
「冒険者ギルドからも似た報告が来ています」
「孤児院にも確認を」
医師が扉へ向かう。
外の若い医師か助手が、早口で状況を告げている。
「水下り病と見てよろしいかと。
スラム側だけでなく、下町の水場にも出始めています」
「隔離は」
「軽症者が多すぎて追いつきません。
重症は子どもと老人です」
子ども。孤児院。
胸の奥が、また詰まる。
「行きます」
口が、勝手に言っていた。
医師は、こちらを振り返った。
「君が行って何をする」
「……」
それは。
走って。見に行って。
いや、今の俺に、何ができる。
「何か、考えます」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「考えるなら、ここで考えろ」
その通りだ。
俺は今、歩いて行くことも、魔法を使うこともできない。
「私が行く」
「……エリュナ」
立ち上がって、エリュナは言った。
「スラムだよ」
「うん」
「森とは違う」
「知ってる」
「たぶん、思ってるより汚い」
「それでも」
エリュナは、まっすぐ俺を見る。
「きれいなところだけ見ても、
森の外を見たことにはならない」
テオがいる。グレンも。ミレーネも。
焼き肉屋がある。
あの路地に、俺が置いてきたものがある。
自分が行けないくせに、
誰かに行ってほしいと思っている。
「俺が護衛する」
リュシュアさんが言った。
「少し離れてつく」
エリュナが首をかしげる。
「お前が自分で見るためだ」
リュシュアは短く答えた。
「俺が前に出ると、スラムが黙る」
ラグナさんが肩をすくめる。
「私はこっちに残るわ。
この芋虫、目を離すと、また蛹になる前に燃えようとするから」
「燃えません」
「今、行きますって言ったばかりでしょうが」
言い返せない。
エリュナが、少しだけ笑った。
でもその笑みは、すぐに真面目な顔へ戻る。
「アレン」
名前を呼ばれる。
「行ってくる」
「……お願いします」
エリュナは頷く。
医師が、若い助手に指示を出す。
「エリュナ嬢は施療院の者と合流。
リュシュア殿は護衛。
下町の水場、孤児院、スラム側の井戸を順に確認する」
「はい」
「重症者は無理に動かすな。水を煮る指示を出せ。
ただし、燃料が足りない場所では無理をさせるな」
エリュナが医務室の扉を開く。
遠ざかっていく足音。
医務室に残ったのは、ベッドの上の俺と、
淡く光る小さな石だけだった。
俺は、白い線を見つめる。
走らない形。
撃たない形。
自分が前に出ない形。
まだ、何も分からない。
今の俺には、三歩先が遠い。
それでも——
そこへ行く道を、どこかに見つけなきゃいけない。




