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初級魔法しか取り柄がない!!  作者: なるっち
7章 王立ヴィクリィール学園編 ― 水の巡り

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第102話 扉までの数歩

泥の匂いがした。


腕の中には、旗がある。


重い。


ただの布と棒のはずなのに、

今まで誰かが踏ん張って、倒れて、押し返して、

それでも繋いできたものが全部、そこに乗っている気がした。


右足首。


あと一歩。


その一歩だけでいい。


届けば、まだ終わらない——


そう思った瞬間、視界の端で、軍団長の肩が沈んだ。


大きい。速い。


避け——


 ◇


「——っ!」


起き上がれなかった。

動かそうとして、そこでまた、身体のどこかが引っかかった。


痛い、とは少し違う。遠い。

自分の身体なのに、返事がない。


「起きたか」


低い声がした。


顔を向ける。ベッドの脇に、白髪の老人が立っていた。

知らない人だ。


「こちらを向け」


言われるまま顔を向ける。


「目を開けろ」


開いているつもりだったけど、老人は指でまぶたを軽く持ち上げた。


「口」


「……あ」


「もっと」


口の中を覗かれる。


次に、胸元に冷たい板のような器具を当てられた。

かすかに光る薄板を、老人は黙って見つめている。


「名前」


「……アレン・ハルトシュタイン」


「年」


「十三です」


「領地」


「ハルトシュタイン領」


「最後に覚えていることは」


最後。泥。旗。軍団長。


「御前試合で……旗を持って、走っていました」


老人は、小さく頷いた。


「記憶はつながっているな」


それから、俺の右足首へ視線を落とす。

触れられる前に、身体が少しだけ強張る。


老人の眉が、ほんのわずか動く。


「反応もある。悪くはない」


悪くはない。その言葉に、少しだけ息が抜けた。

けれど老人は、すぐ続ける。


「良くもない」


「……」


「君は御前試合の後、意識を失ってここへ運ばれた」


「御前試合は——」


声がかすれた。


「最後、どうなりましたか」


老人は、薄い鏡を伏せた。


「私は観戦していない」


「え」


「私はここの駐在医師だ。見ていたのは試合ではなく、運ばれてきた君の呼吸だ」


あの一歩が届いたのか。

旗は。みんなは。


老人は、俺の思いを切った。


「君の身体は、まだ起きているだけで魔力を動かそうとする。

 聞くな。考えるな。答えを探すな」


「でも——」


「もう少し寝ておきなさい」


冷たい器具が、もう一度胸元に当てられる。


薄板が淡く光った。

胸の奥で、ぎち、と鳴りかけていたものが、少しだけ遠くなる。


目を開けているつもりなのに、

天井の木目がゆっくりにじんだ。


ゆっくりとまぶたが落ちていった。

 


 ◇



「どう? 起きた?」


医務室の隣室から戻ってきたのは、淡金色の髪のエルフ。


「一瞬だけ。

 それにしても、来ていただいて助かった。

 この子の以前の状態を知る者が必要だった」


医師はアレンを観察している。


「今の状態は?」


ラグナは、表情を少し硬くした。


「……どうなの、兄さん」


「線は前から駄目だ」


リュシュアが簡潔に答える。


「太い線は、森に拾ったときからほとんど死んでる。

 細い線も、魔力を流す道には戻らなかった」


「じゃあ、今回悪くしたのは?」


「点だ」


リュシュアの声が、少し低くなる。


「世界樹の下で、かろうじて残った外側の魔法点。

 こいつはそこへ直接火を投げ込んで、身体を動かしてた」


「線を通さずに?聞いたこともない。

 ……無茶な構造だ」


学園医師が眉を寄せた。


「無茶だが、動いた」


リュシュアは、眠っているアレンを見る。


「だから本人も周りも、動けると思った」


部屋の隅。

テーブルの上の石皿には、いくつかの石が並んでいる。

どれも、ほんのりと淡い光を帯びていた。


ラグナが石皿に目をやる。


「で、暴れてた分は、ちょっと抜いた」


「応急処置だ。治したわけじゃない」


学園医師の表情は硬い。


「ほんと、面倒見がいのある弟子ね」


ラグナは、アレンの額をこつんと軽く小突いた。


「起きたらちゃんと言っときなさい。

 『打ち止めよ』って」


「……言うだけなら」


エリュナが小声でつぶやくと、

ラグナとリュシュアが同時にため息をついた。



 ◇



次に目を開けたとき、医務室は少し暗くなっていた。


どれくらい眠ったのか。


胸の奥はまだ痛い。

でも、さっきより少しだけ、音が遠い。

老人が、記録板を手にベッドの脇にいた。


そのとき、扉が叩かれる。


「先生」


若い声。白衣の袖だけが少し見えた。


「下町の施療院から追加の報告です。スラム側で、水下り病が増えています」


スラム——その言葉だけが、胸に引っかかった。


「分かった。すぐ行く」


老人は器具を片付ける。


「君はこのまま安静だ。戻るまで、勝手に動くな」


「待ってください」


思わず声が出た。


「スラムって、どこの——」


「詳細はまだ知らん。施療院からの報告を見てからだ」


「孤児院は」


「知らん」


老人は扉へ向かう。


「立つな。動くな。魔法を使うな」


そう言って、扉が閉まった。





医務室が、急に広くなった。


窓の外には、学園の空。

前と変わらず、寮の旗が風に揺れている。


御前試合。最後の一歩。


そこから急に、別の一群が顔を出す。

スラム。孤児院。

焼き肉屋の煙。

ミレーネ。テオ。グレン。


ばらばらの景色が、胸の奥でぶつかる。


行かなきゃ——そう思って、ベッドの端を握った。


身体は、いつもの順番を探す。


「っ……」


腰を浮かせようとして——

胸の奥が詰まる。


右足首を見る。

そこだけ道に迷っているみたいだった。


ベッドから、動くこともできない。


「なに、芋虫みたいにもぞもぞしてるの?」


扉のほうから声。


「……ラ、ラグナさん!?」


淡金色の髪のエルフが、呆れ顔で扉にもたれていた。


「芋虫に、さん、付けされると、ちょっと殴りたくなるわね」


「芋虫はひどくないですか」


笑い返そうとしたけれど、

身体はまだベッドに半分沈んだままだ。


ラグナはそれを見て、

ほんの少しだけ目を細める。


「まあ、死にそうって顔からは、だいぶマシになったわ」


「……それ、褒めてます?」


「半分はね」


その後ろから、金緑の髪がひょこっと出た。


「……エリュナも?」


「ずっとあんたを見張ってたのよ」


「……やっぱりあれは夢じゃない」


ラグナが笑う。


「御前試合に招待されたのよ。

 ちょうど顔を見に行く予定だったから、ついでに」


「御前試合がついですか」


「エルフの用事なんて、だいたい百年分のついででできてるのよ」


ラグナが視線を奥へ向ける。


扉のそばの壁にもたれていた長身の影が、自然に浮かび上がった。


「リュシュアさん……」


「俺は護衛だ」


いつもの顔で、いつもの声。


「御前試合に呼ばれて来てみれば、お前が張り切って倒れていた」


「……見てたんですか」


「見てた」


胸の奥が、少しだけ熱くなる。

恥ずかしいような、ほっとするような、怖いような。


「最後、どうなりました?」


ラグナとエリュナが、少しだけ黙る。

リュシュアさんは壁にもたれたまま言った。


「お前は気絶して、飛ばされた」


「……え」


ラグナが横から軽く手を振る。


「学生たちは頑張ってたわよ。でも、軍にはさすがに勝てないわね」


最後の一歩。

ありったけを詰めた。

足首にも、腰にも、肩にも。

残っているものを全部。

それでも。


「……届かなかったんですね」


声に出すと、思っていたより小さかった。

リュシュアは、短く言う。


「軍団長に感謝しろ」


「え?」


「あのタックルがなければ、お前はそのまま内側から弾けていたかもしれん」


「……助けられたんですか」


「止められたんだ。お前が止まれなかったからな」


止まれなかった——その言葉が、胸の奥に落ちる。


「最後の一歩の前、何か違ったはずだ」


右足首。最後の火。

いつもなら、踏み込む前の一瞬にそこに置けた小さな目印。


でも、あのときは。


「……火の置き場が、遠かった気がします」


「そこで止まるべきだった」


「でも——」


思わず言葉が出る。


「あそこで止まったら、みんなが作った形が——」


リュシュアは、言う前に読み取ったように口を開いた。


「お前が何もしてこなかったとは言わん。

 王都で居場所を作ったことも、学園で工夫したことも、少しは聞いている」


焼き肉屋。孤児院。地形。旗戦。


「だが、最後に戻る場所が、いつも自分の足なのは変わっていない」


息が止まる。


「お前に別の道を探せといったはずだ」


静かな声だった。

言い返したかった。

俺だって自分なりに工夫してきた、と。


でも、扉までの数歩も進めない今の身体で、

その言葉を押し返すことはできなかった。


沈黙が流れる。

医務室の外から、慌ただしい足音が聞こえた。


「さっき」


声を出すと、喉が少し乾いていた。


「先生が言ってました。スラムで、水下り病が増えてるって」


ラグナの顔から、軽口が少し消える。


「聞こえてたのね」


「水下り病って、何ですか」


リュシュアさんが答える。


「水が悪いと出る病だ。

 腹を下して、熱が出る。弱い子から倒れる」


「……よくあるんですか」


「スラムではな。放っておけば、最悪、死人が出る」


「それ、よくないじゃないですか」


言った瞬間、身体が動こうとした。


「だめ」


エリュナが、こちらを見る。


扉までの数歩。


それが今、御前試合の最後の一歩より、ずっと遠い。


でも、誰も気づいていない。

アレンがまだ、本当の意味で目覚めていないことを。


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