第102話 扉までの数歩
泥の匂いがした。
腕の中には、旗がある。
重い。
ただの布と棒のはずなのに、
今まで誰かが踏ん張って、倒れて、押し返して、
それでも繋いできたものが全部、そこに乗っている気がした。
右足首。
あと一歩。
その一歩だけでいい。
届けば、まだ終わらない——
そう思った瞬間、視界の端で、軍団長の肩が沈んだ。
大きい。速い。
避け——
◇
「——っ!」
起き上がれなかった。
動かそうとして、そこでまた、身体のどこかが引っかかった。
痛い、とは少し違う。遠い。
自分の身体なのに、返事がない。
「起きたか」
低い声がした。
顔を向ける。ベッドの脇に、白髪の老人が立っていた。
知らない人だ。
「こちらを向け」
言われるまま顔を向ける。
「目を開けろ」
開いているつもりだったけど、老人は指でまぶたを軽く持ち上げた。
「口」
「……あ」
「もっと」
口の中を覗かれる。
次に、胸元に冷たい板のような器具を当てられた。
かすかに光る薄板を、老人は黙って見つめている。
「名前」
「……アレン・ハルトシュタイン」
「年」
「十三です」
「領地」
「ハルトシュタイン領」
「最後に覚えていることは」
最後。泥。旗。軍団長。
「御前試合で……旗を持って、走っていました」
老人は、小さく頷いた。
「記憶はつながっているな」
それから、俺の右足首へ視線を落とす。
触れられる前に、身体が少しだけ強張る。
老人の眉が、ほんのわずか動く。
「反応もある。悪くはない」
悪くはない。その言葉に、少しだけ息が抜けた。
けれど老人は、すぐ続ける。
「良くもない」
「……」
「君は御前試合の後、意識を失ってここへ運ばれた」
「御前試合は——」
声がかすれた。
「最後、どうなりましたか」
老人は、薄い鏡を伏せた。
「私は観戦していない」
「え」
「私はここの駐在医師だ。見ていたのは試合ではなく、運ばれてきた君の呼吸だ」
あの一歩が届いたのか。
旗は。みんなは。
老人は、俺の思いを切った。
「君の身体は、まだ起きているだけで魔力を動かそうとする。
聞くな。考えるな。答えを探すな」
「でも——」
「もう少し寝ておきなさい」
冷たい器具が、もう一度胸元に当てられる。
薄板が淡く光った。
胸の奥で、ぎち、と鳴りかけていたものが、少しだけ遠くなる。
目を開けているつもりなのに、
天井の木目がゆっくりにじんだ。
ゆっくりとまぶたが落ちていった。
◇
「どう? 起きた?」
医務室の隣室から戻ってきたのは、淡金色の髪のエルフ。
「一瞬だけ。
それにしても、来ていただいて助かった。
この子の以前の状態を知る者が必要だった」
医師はアレンを観察している。
「今の状態は?」
ラグナは、表情を少し硬くした。
「……どうなの、兄さん」
「線は前から駄目だ」
リュシュアが簡潔に答える。
「太い線は、森に拾ったときからほとんど死んでる。
細い線も、魔力を流す道には戻らなかった」
「じゃあ、今回悪くしたのは?」
「点だ」
リュシュアの声が、少し低くなる。
「世界樹の下で、かろうじて残った外側の魔法点。
こいつはそこへ直接火を投げ込んで、身体を動かしてた」
「線を通さずに?聞いたこともない。
……無茶な構造だ」
学園医師が眉を寄せた。
「無茶だが、動いた」
リュシュアは、眠っているアレンを見る。
「だから本人も周りも、動けると思った」
部屋の隅。
テーブルの上の石皿には、いくつかの石が並んでいる。
どれも、ほんのりと淡い光を帯びていた。
ラグナが石皿に目をやる。
「で、暴れてた分は、ちょっと抜いた」
「応急処置だ。治したわけじゃない」
学園医師の表情は硬い。
「ほんと、面倒見がいのある弟子ね」
ラグナは、アレンの額をこつんと軽く小突いた。
「起きたらちゃんと言っときなさい。
『打ち止めよ』って」
「……言うだけなら」
エリュナが小声でつぶやくと、
ラグナとリュシュアが同時にため息をついた。
◇
次に目を開けたとき、医務室は少し暗くなっていた。
どれくらい眠ったのか。
胸の奥はまだ痛い。
でも、さっきより少しだけ、音が遠い。
老人が、記録板を手にベッドの脇にいた。
そのとき、扉が叩かれる。
「先生」
若い声。白衣の袖だけが少し見えた。
「下町の施療院から追加の報告です。スラム側で、水下り病が増えています」
スラム——その言葉だけが、胸に引っかかった。
「分かった。すぐ行く」
老人は器具を片付ける。
「君はこのまま安静だ。戻るまで、勝手に動くな」
「待ってください」
思わず声が出た。
「スラムって、どこの——」
「詳細はまだ知らん。施療院からの報告を見てからだ」
「孤児院は」
「知らん」
老人は扉へ向かう。
「立つな。動くな。魔法を使うな」
そう言って、扉が閉まった。
◇
医務室が、急に広くなった。
窓の外には、学園の空。
前と変わらず、寮の旗が風に揺れている。
御前試合。最後の一歩。
そこから急に、別の一群が顔を出す。
スラム。孤児院。
焼き肉屋の煙。
ミレーネ。テオ。グレン。
ばらばらの景色が、胸の奥でぶつかる。
行かなきゃ——そう思って、ベッドの端を握った。
身体は、いつもの順番を探す。
「っ……」
腰を浮かせようとして——
胸の奥が詰まる。
右足首を見る。
そこだけ道に迷っているみたいだった。
ベッドから、動くこともできない。
「なに、芋虫みたいにもぞもぞしてるの?」
扉のほうから声。
「……ラ、ラグナさん!?」
淡金色の髪のエルフが、呆れ顔で扉にもたれていた。
「芋虫に、さん、付けされると、ちょっと殴りたくなるわね」
「芋虫はひどくないですか」
笑い返そうとしたけれど、
身体はまだベッドに半分沈んだままだ。
ラグナはそれを見て、
ほんの少しだけ目を細める。
「まあ、死にそうって顔からは、だいぶマシになったわ」
「……それ、褒めてます?」
「半分はね」
その後ろから、金緑の髪がひょこっと出た。
「……エリュナも?」
「ずっとあんたを見張ってたのよ」
「……やっぱりあれは夢じゃない」
ラグナが笑う。
「御前試合に招待されたのよ。
ちょうど顔を見に行く予定だったから、ついでに」
「御前試合がついですか」
「エルフの用事なんて、だいたい百年分のついででできてるのよ」
ラグナが視線を奥へ向ける。
扉のそばの壁にもたれていた長身の影が、自然に浮かび上がった。
「リュシュアさん……」
「俺は護衛だ」
いつもの顔で、いつもの声。
「御前試合に呼ばれて来てみれば、お前が張り切って倒れていた」
「……見てたんですか」
「見てた」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
恥ずかしいような、ほっとするような、怖いような。
「最後、どうなりました?」
ラグナとエリュナが、少しだけ黙る。
リュシュアさんは壁にもたれたまま言った。
「お前は気絶して、飛ばされた」
「……え」
ラグナが横から軽く手を振る。
「学生たちは頑張ってたわよ。でも、軍にはさすがに勝てないわね」
最後の一歩。
ありったけを詰めた。
足首にも、腰にも、肩にも。
残っているものを全部。
それでも。
「……届かなかったんですね」
声に出すと、思っていたより小さかった。
リュシュアは、短く言う。
「軍団長に感謝しろ」
「え?」
「あのタックルがなければ、お前はそのまま内側から弾けていたかもしれん」
「……助けられたんですか」
「止められたんだ。お前が止まれなかったからな」
止まれなかった——その言葉が、胸の奥に落ちる。
「最後の一歩の前、何か違ったはずだ」
右足首。最後の火。
いつもなら、踏み込む前の一瞬にそこに置けた小さな目印。
でも、あのときは。
「……火の置き場が、遠かった気がします」
「そこで止まるべきだった」
「でも——」
思わず言葉が出る。
「あそこで止まったら、みんなが作った形が——」
リュシュアは、言う前に読み取ったように口を開いた。
「お前が何もしてこなかったとは言わん。
王都で居場所を作ったことも、学園で工夫したことも、少しは聞いている」
焼き肉屋。孤児院。地形。旗戦。
「だが、最後に戻る場所が、いつも自分の足なのは変わっていない」
息が止まる。
「お前に別の道を探せといったはずだ」
静かな声だった。
言い返したかった。
俺だって自分なりに工夫してきた、と。
でも、扉までの数歩も進めない今の身体で、
その言葉を押し返すことはできなかった。
沈黙が流れる。
医務室の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「さっき」
声を出すと、喉が少し乾いていた。
「先生が言ってました。スラムで、水下り病が増えてるって」
ラグナの顔から、軽口が少し消える。
「聞こえてたのね」
「水下り病って、何ですか」
リュシュアさんが答える。
「水が悪いと出る病だ。
腹を下して、熱が出る。弱い子から倒れる」
「……よくあるんですか」
「スラムではな。放っておけば、最悪、死人が出る」
「それ、よくないじゃないですか」
言った瞬間、身体が動こうとした。
「だめ」
エリュナが、こちらを見る。
扉までの数歩。
それが今、御前試合の最後の一歩より、ずっと遠い。
でも、誰も気づいていない。
アレンがまだ、本当の意味で目覚めていないことを。




