第101話 目覚め
さわ……
ざわ……。
音じゃない。
光でもない。
どこかで、葉と葉が触れ合うみたいな気配が、
遠くから少しずつ重なってくる。
細かい揺れになって、
空気を渡り、身体のまわりを満たす。
包まれる。
皮膚を越え、
ゆっくりと内側へ染みてくる。
胸の奥。
そこだけが、はっきりとそれを覚えていた。
ああ、これ——
◇
「……ん」
まぶたが重い。
鼻の奥に、木の匂いと、土と、乾いた布の匂い。
ゆっくり目を開ける。
頭上に、木の枝。
そのすき間から、柔らかい光が差し込んでいる。
胸の奥が、ぎち、と嫌な音を立てる。
「っ……」
骨じゃなくて、そのもっと内側の痛み。
「起きた?」
すぐそばから、柔らかい声。
金緑の髪。尖った耳。
見覚えのある横顔。
エルフ。
世界樹の根もと——みたいな、どこか。
「……エリュナ」
名前が、自然に出た。
エリュナは、ぱちぱちと瞬きをしてから、笑った。
「うん。エリュナ。
巫女候補で、ちょっとだけ世界樹の声が分かるエルフ」
「……エルフの、里?」
自分の口から、その言葉が出ていた。
「あれ、じゃあ……」
喉の奥が詰まる。
「スタンピードは——」
土の砦。
押し寄せる魔物。
巨人の単眼。
泥の匂い。
父さんの背中。
「ボスは……」
問いながら、
今度こそ「何もなかった」って言われそうで、怖くなる。
エリュナは、ただ、じっと見ている。
「世界樹の下で、『もう魔法は撃てない』って言われて……
二年寝てて、起きたとき、エリュナとリュシュアさんがいて」
そこで一度、息を飲む。
世界樹の治療。
瘴気石を泥だんごの封印。
「……それから王都に行って、
孤児院でご飯作って、焼き肉屋をやって……
学園に来て、旗戦して、軍と土の上で走って」
言いながら、
それがだんだん遠くの景色みたいに感じてくる。
「あれ、全部……」
喉がひっかかる。
「……長い、夢」
もしそうなら、今はまだ始まってもない。
そう思うほうが、楽な気もするし、嫌な気もする。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
エリュナは、全部聞き終えてから、
そっと俺の手に、自分の指を重ねる。
「……ごめん」
ぽつりと言う。
「王都で何をしてたか——
ちゃんとは知らない」
エリュナは、小さく首を振る。
「世界樹の根っこから見えるのは、
森と、マナと、ちょっとした揺れぐらい」
「だから今の話、ほとんど初めて聞いた」
それでも。と、指先に少し力が入る。
「“全部夢だった”は、違うと思う」
エリュナは、一瞬だけ上を見上げた。
この部屋の天井の、もっとずっと先。
「ここに運ばれてきたときから、ずっとざわざわしてた」
「え、世界樹が?」
「うん。
はっきりは分からないけど」
「でも、あのときと同じ揺れ方を、一回した」
エリュナは、少し笑う。
今度はベッド脇の台を、こん、と指で叩く。
そこにあるものに、ようやくちゃんと目がいった。
「……枝」
「うん。世界樹が落とした」
エリュナは、枝の先をそっと撫でる。
「またやったの?って言ってる」
ふっと息を吐いた、その途中で、
胸の奥を、冷たい手でつかまれたような感覚が走る。
「っ……」
世界樹の枝が、小さく震えた。
エリュナが、そっと手を添える。
「……ダメ。まだそこに行きたがってる」
「そこ?」
「うん。中のマナ。
アレンが、足に火を灯してたところ」
言われて、右足首の冷たさが少しだけ強くなる。
いつもなら、そこに一瞬だけ熱が宿った。
踏み込む前の、ほんの小さな火。
けれど今は、そこへ触れようとするだけで、
胸の奥が嫌な音を立てる。
「まだそこへ行こうとしてる。
でも、もう受け止められない」
エリュナは、俺の胸元を見て、
少しだけ困った顔で笑った。
「だから——
起きるのと、諦めるの、半分こ」
胸の奥が、冷たくなる。
起きているのか。寝ているのか。よく分からない。
窓の向こうには、トラルの旗が見える。
前と変わらず、風になびいている。
「……じゃあ、半分だけ、寝ます……」
目を閉じる直前、世界樹の枝が、小さく震えた。




