第610話 涙味の旅立ち
満が小麦と同居するようになってから一か月が経った日のことだった。
「それじゃ、満くん。私、行ってくるわね」
「はい、気を付けて行ってきて下さいね、小麦さん」
満と小麦は空港にやってきていた。
それというのも、小麦が会社の辞令で海外赴任になってしまったからだ。新入社員がいきなり海外というのはまずありえないのだが、小麦の場合はいろいろ理由があった。
「いやぁ、ママから直々に鍛えると言われた時はびびったねぇ」
「まさか小麦さんの就職した会社が、グラッサさんの会社と関係があったとは知りませんでしたよ」
「私も初めて知った。どおりですんなり内定が出ると思ったよ、にししし」
どうやら小麦は、まったく自分の選んだ会社のことを知らなかったようである。
もしかしたら、会社の人はグラッサの娘だと知って選んだ可能性は十分あり得る……のかもしれない。
なんにせよ、小麦は海外に行くことになってしまった。
「おかしいと思ったんだよねぇ。内定の通知をもらった時に、長い方のパスポートを取れって書いてあったからさ。最初から私を飛ばす気満々だったんだよ」
「それは、間違いなく狙ってましたね」
思い返せばいろいろおかしいことがあったようだ。おかしなことばかりで、二人は困った顔をして笑っている。
「それにしても、小麦さん一人で向かうんですか?」
「うんにゃ。誰かひとり付き添いがいるらしいよ。誰かは聞いてないけど」
改めて満が問いかけるのだが、どうやら海外出張に合わせて案内人がいるらしい。ただ、その人物を小麦は誰か聞いていない上に、まだ来ていないらしい。
仕方がないので、小麦は出発手続きを前に待ちぼうけである。
「おお、来ておったか、小麦、満」
「あれっ、ルナさん?」
「なんでルナ・フォルモントがいるのよ。パパのところに行ってたはずでしょ?」
しばらく待っていると、空港にルナ・フォルモントが姿を見せた。普通に挨拶をしてくるルナ・フォルモントだが、二人はなんでここにいるのかと驚いている。
二人の反応を見て、ルナ・フォルモントはどういうことだと顔をしかめている。
「なんじゃ。妾がヨーロッパまでの付き添いだと聞いておらんのか」
「えっ、ルナ・フォルモントだったの、付き添いって」
「そうだぞ。グラッサからの直々の指名でな。ただ、早めに来ようと思ったのだが、道が思ったより混んでおって、遅くなってしもうたわい」
小麦の驚き続けているので、ルナ・フォルモントは理由を話している。もちろん、遅くなった理由も。
「それにしてもイリス。何を黙ってつっ立っておるのだ」
「うっ」
少し離れて立っていたイリスに、ルナ・フォルモントは声をかけている。
イリスがいるのは、小麦を見送った後の満を送り届けるためだ。もちろん、ここまでも運転してきていた。
「もう、二人の別れを邪魔しないように黙って立ってたのに!」
「そんなところでつっ立っておったら、他の客の迷惑であろう。少しは考えるのだな」
「はあ、しょうがないわね」
イリスはルナ・フォルモントたちに近付く。
「これでしばらく、気軽に会えないわね。何年間の予定なの?」
「えっと、二年間、かな。せっかく恋人になったのに、同居を始めた途端にこれよまったく、どうしてこうなるのよ」
「我慢するのだな。グラッサもそこまで鬼ではないからな」
意外と海外に滞在する期間が長くて、満はびっくりしている。
「その間の満くんの面倒は、私に任せておいてよ。事務所の先輩としてしっかり面倒見てるからね」
「満くん、絶対舞お姉ちゃんに惚れちゃダメだからね?」
「もちろんだよ、小麦さん。心配しないでよ」
イリスが面倒みるからというので、小麦は満に念を押すように確認をしている。不安そうな小麦に対して、満ははっきりと答えている。
『まもなく、パリ行きの便の搭乗手続きを始めます。ご利用のお客様は出国ロビーへとお急ぎの上、手続きをお願い致します』
そこに、飛行機の案内が流れる。
この放送を聞いて、小麦はちょっと表情を曇らせた。
「もう、時間だね」
「寂しいですね。二年間も小麦さんに会えないのかと思うと」
小麦が話し掛ければ、満も寂しそうにしている。
会社からの命令とはいえど、こればっかりは理不尽だなと思っている。
満の姿を見た小麦は、満をちょちょっと呼び寄せる。なんだろうと思って満が近付くと、小麦は満を引き寄せると、唇を重ねてきた。
「こ、小麦さん?!」
「へへっ。二年間、お預けになるからね」
耳まで真っ赤になる満に対して、小麦も頬を染めながら言葉を返している。
「小麦、手続きをしておるから、おぬしも来い。名残惜しいのはいいが、乗り遅れたらグラッサに叱られるぞ」
「わわっ、それは大変だわ」
ルナ・フォルモントに呼ばれて、小麦は出国の手続きに向かう。
そうかと思えば、突然立ち止まって振り向いている。
「満くん、二年後、絶対に戻ってくるからね。待っててよね」
「はい、もちろんです。元気な姿で戻ってきて下さいね」
「もちのろんだよ」
二人は、互いに遠くなる姿を、笑顔でなんとか見送っていた。
しかし、姿が見えなくなると、タイミングを同じくして満も小麦も、涙を浮かべ始めた。
そんな二人を、ルナ・フォルモントとイリスは必死に慰めている。
恋人になってようやく同居できるようになったというのに、すぐにやってきてしまった別れ。
二人は、再開できる日を胸に、それぞれの生活へと踏み出した。




