第599話 人生最大の緊張
「ふわぁ、よく寝た」
満は目を覚まして、伸びをして体をほぐしている。
昨日の夜、イリスの部屋へとやってくるまでは光月ルナとして緊張を強いられていたが、コンサートが終わって空月満へと完全に戻っている。ただし、姿はルナのままである。気持ちの問題だ。
「おはよう。起きたわね、満くん」
「おはようございます、イリスさん。泊めていただいてありがとうございます」
目をこすりながら、満はイリスの声に反応している。まだ眠そうな満に対して、イリスはすっかり目が覚めているようだ。
それもそうだろう。今日は満と小麦のデートなのだ。そんなに悠長に寝ていられないというのだ。
「さっ、さっさと顔を洗って目を覚ましたら、朝食にするわよ。九時まで三時間ないんだし」
「ああ、そっか……。小麦さんとの約束があるんだった……」
まだまだ夢見がちな状態の満だが、体を起こすとふらふらと洗面所へと向かっていった。
顔を洗って戻ってきた満は、ものすごくすっきりしている。
「ああ、すっきりしました」
「そう。それじゃ朝食にしましょうか。今日は気合いを入れなきゃいけないし、しっかり食べてちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
椅子に座った満は、ちゃんといただきますをしてから食べ始める。
どうやらイリスの朝はパン食らしい。トーストにサニーサイドアップ、サラダにスープという組み合わせだ。実に健康に良さそうな食事である。
もぐもぐと笑顔で食べる満の姿を見て、イリスは満足そうに微笑んでいる。
「えっと、イリスさん。僕の顔に何かついてますか?」
視線が気になった満は、思わず声をかけてしまう。
「ううん。退治屋として最初は存在が許せなかったはずなのに、今目の前で食事をしている姿を見て安心してるなんて、私も変わったなって思ってね」
「あっ、そうでしたね。でも、その頃の僕は、ルナさんが体の中にいましたからね」
「今だってそうよ。ルナ・フォルモントの影響で、満くんは怪異化しているんだからね。退治屋の私からしたら、倒さなきゃいけない相手なのよ。はあ、困ったわね」
「……イリスさん?」
よく分からない態度を取られたので、満は首を傾げてしまう。
「なんでもない。さっさと食事を済ませて、お出かけの準備をするわよ。今日は昨日とは違った意味で気合いを入れないと!」
「分かりました。それじゃ食べちゃいますね」
きょとんとした満の顔を見たイリスは、はぐらかすように言葉を発している。満の方はというと、いわれた言葉に素直に従っている。
この様子を見て、やっぱり満は他人からの気持ちに鈍感なのは変わっていないと思うイリスなのであった。
待ち合わせの時間まで残り四十分。
「うん、できたわ」
「えっと、ずいぶんと気合い入れ過ぎてないですかね……」
満のヘアメイクなどを終えたイリスはずいぶんと満足げである。ただ当人は少し困惑している模様。
「何を言っているのよ。今や満くんはアイドル光月ルナとして有名人。外を歩く時は気をつけなくっちゃね。これくらいやりすぎた方がいいのよ」
「た、確かに……」
イリスの言い分を聞かされた満は納得する。コンサートは昨日だ。その翌日に普通に街を歩いていれば、目立ってしょうがないだろう。
「髪を洗えば取れるからね、このゆるふわヘアアレンジは」
「そうなんですね。僕はストレートが気に入ってるので、あんまりいじる気しなかったんですけど、これもいいですね」
「単純にアレンジする気ないだけでしょ。満くんは男の子だもん、そういうの興味なさそうだから」
「うぐっ!」
痛いところを突かれて、満は思わず声を出してしまっていた。
しっかりと服装も着替えた満は、最後に伊達眼鏡をかけさせられて出かけることになった。
「これは私も使っている変装用の眼鏡。レンズが入っていないから、何にも気にすることないわよ」
「そうなんですね。ちょっと違和感があるかな……」
「なーにいってるのよ。今日はデートなんだから、邪魔されるのは無粋。しっかり楽しみなさい」
「で、で、デート……」
デートという単語を聞いた満は、落ち着かない様子になって顔を赤らめてしまっている。なんともうぶな反応に、イリスはなんて反応を示したらいいのか困っていた。まったくもって純粋か。
そんなこんなでイリスに服の一式を借りた満は、イリスの運転する車で小麦の現在住んでいる部屋と向かう。助手席に座る満は、緊張した様子でかなり肩ひじを張ってしまっている。
信号待ちをしている時、イリスは手元に置いていた帽子を満にかぶせる。
「いつも通りでいいのよ。それだけ緊張するっていうことは、小麦ちゃんのことを特別に思ってくれてるってことだからね。予想外な相手だったけれど、後輩であるあの子が幸せになるんだったら、私は素直に喜ぶ」
前を向いたまま話すイリスの言葉を、満はただ黙って聞いていた。
「こういう時は度胸を見せなさい。今のあの子に必要なのは、君の素直な気持ちなんだからね」
「……はい」
イリスの励ましを受けた満は、頬を赤くさせて、小さくこくりと頷いている。
いよいよ、小麦の待つマンションへと到着する。
今日はおそらく、これまでで一番緊張している日。コンサートよりも緊張している。
イリスは用事があるからと、満を降ろしたところでそのまま走り去ってしまった。
一人になった満は、小麦の住むマンションへといよいよ足を踏み入れる。




