第524話 契約
桜の花が咲く頃になると、小麦は大学の講義に合わせて東京に戻っていってしまった。
今年も桜は例年通りの開花予想だ。小麦は満と一緒に桜を見るということを今年も叶えられなかったようだった。
さて、満たちは無事に高校二年生になった。二年生になったからとはいっても、何も変わらないといえば変わらない。下に後輩たちが入ってきたくらいだった。
今年のクラス分けでは、三人そろってクラスが分かれてしまったので、満は教室の中で一人ぐでっと突っ伏していた。
クラスの中には中学校時代からの同級生がいるとはいっても、そこそこ親しくもなかったので、なかなか話をする気にもなれない。実に退屈そうな満なのである。
(はぁ、退屈だなぁ……)
満は机に突っ伏しながら、うとうととしている。
そんな時だった。
ブルブルブルブル……。
ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが急に震え出す。
慌てた満が取り出してみると、震えが止まってしまう。画面をつけてみれば、どうやらイリスからの着信があったようだった。
折り返そうとするものの、ここは学校なので電話はひとまず無理だとして、確認だけをしようとしてロック画面を解除する。よく見てみると、メールが新しく来たようだった。
開いてみると、それはイリスではなく環からのメールだった。
内容を確認してみると、それは社長からの承諾が下りたという内容のものだった。つまり、満はイリスと同じ事務所のアイドルになるということである。
さらに内容を読み進めていくと、早速ゴールデンウィークから仕事があるということで、今度の週末に話をしに来るというものだった。
(うーん、これで後戻りはできないか。僕にアイドルとかどこまで務まるか分からないけれど、こうなったからには頑張るか)
ひとまず気持ちを落ち着けた満は、画面を閉じてスマートフォンをズボンのポケットにしまったのだった。
そうして迎えた週末。
「そわそわ……」
早速女の姿になった満は、落ち着かない様子で部屋をうろついていた。
今日は家に、イリスと環、それと事務所の社長がやってくるとの話だからだ。イリスの仕事の状況からするに、あんまり無茶苦茶をするようなイメージはないものの、さすがに緊張してしまうというものだ。
こういう契約というものは、満にとっては実のところ初めてなのだ。緊張しても無理ないというものである。
しばらくすると、家の外から車が止まるような音が聞こえてくる。その音を聞いた満は、バタバタと慌てて階段を降りていく。
ピンポーンと呼び鈴が鳴ると、玄関ののぞき窓から外を見てしまう。イリスたちの姿が見えたので、満は玄関の扉を開けて外へと出て行ってしまう。
「イリスさん、環さん、お久しぶりです」
外に出た満は二人に挨拶をする。そこで改めてその真中へと視線を向けてみると、見たことのない男性が立っていた。
「君が、光月ルナちゃんかな?」
「は、はい。そうですけれど」
アバター配信者としての名前を確認され、満はきょとんとした顔で頷いている。
「なるほど。イリスから聞いてはいるが、なかなかな逸材のようだね」
「あ、あの、もしかして社長さんでしょうか」
「いかにも。うん、合格だ。それでは、親御さんと話をさせてもらいたいから、上がっても構わないかな?」
「はい、どうぞ。おあがりください」
社長と名乗る人に言われた満は、脇にどいて家の中へと三人を案内している。
三人を家の中へと案内すると、社長と呼ばれた人物は満とその両親に対してあれこれと話をしている。
その内容によれば、基本的には今まで通りのアバター配信者をしてもらって構わないということだ。事務所のアイドルとして登場する時には、共同配信機能を使って出てもらうということで決まった。
あと、アイドルとしての活動は、当面はイリスとの共演がメインとなるようだった。単独での仕事は、当面の様子を確認させてもらってから決めるとのことらしい。
つまり、完全に今まで通りということで、満はほっとしたようだった。
ただ内容は、アバター配信者と現実との両方でアイドル活動を行うというもので、いわゆる2.5次元アイドルというもののようである。
話を終えると、社長の目の前で正式な書面へのサインを行う。
その最中、満はふと思ったことを社長にぶつけてみることにした。
「あの」
「うん、何かな?」
「事務所に所属したということは、僕の方から発表してもいいんでしょうか」
満が気にかけたことは、契約の公表についてだった。質問を受けた社長は、人差し指を立てて左右に振っている。
「それは、俺の方から発表する。なので、軽々に公表しないでもらいたい」
「分かりました。それで、時期はいつになるのでしょうか」
「それは、イリスの次のイベントの時だな。君にも参加してもらって、そこでイリスの口から発表してもらう。つまり、ゴールデンウィークのここでのイベント会場でということになるな。当面の君は、この町のご当地アイドルになってもらうのだからね」
社長の言葉に、満は同意をする。
納得がいったことで、満もサインをして、これで契約完了である。
「個人勢として活躍している君には期待をしているよ。では、失礼をさせてもらう」
「はい、これからよろしくお願いします」
満がぺこりと頭を下げると、社長は満足そうに笑っていた。
こうして、満は光月ルナとして女性アイドルの道を歩むことになったようである。
最初の仕事は、地元で行われるイリスも参加しての催し物だ。去年までも参加していたとはいえ、今年は違った形での参加になる。それゆえ、満には今までにない緊張感が襲い掛かろうとしているのだった。




