第16話:病室の静寂と、白い包帯
トントン、と規則正しく窓ガラスを叩く静かな雨音が、病室の静寂に溶けていた。
桐生カレンは、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。 その瞬間、彼女は久しく忘れていた奇妙な感覚に気づく。 ――身体が、軽い。 ここ数ヶ月、常に頭の奥を支配していた鉛のような鈍い頭痛も、手足にまとわりついていた泥のような疲労感も、嘘のように消え去っていた。久々に味わう、「十分に眠った」という圧倒的な充足感が全身を満たしている。
視界に映ったのは、見慣れた独身寮のコンクリート天井ではなく、消毒液の匂いが微かに漂う、真っ白で清潔な天井だった。右腕に違和感を覚えて視線を落とすと、点滴の透明なチューブが肌へと繋がっている。
(……私、生きてる?)
かすむ頭で、昨夜の記憶を必死に手繰り寄せる。 激しい雨、渋谷の暗い路地裏。榊の不審死。そして、一切の音を立てずに近づいてきたトレンチコートの暗殺ロボット。 胸元へ迫る、超高周波ブレードの不可視の突き。死を覚悟した瞬間、目の前に割り込んできたのは――。
「……シ、オ……」
掠れた声でその名を呼びかけ、カレンは息を呑んだ。
ベッドのすぐ脇。 パイプ椅子すら置かれていないその狭いスペースに、190センチの巨躯が、まるで彫像のように直立していた。 アーク・システムズ社製の最新鋭警備ロボット、シオン。 彼の右腰から伸びた充電ケーブルが、病室の壁にあるコンセントへとカチリと接続され、胸元の小さなインジケーターが、電力を充電していることを示す穏やかな緑色の光を明滅させている。 その鋼鉄の身体は微動だにせず、ただ静かに佇んでいる。だが、昨夜の激闘の傷跡は生々しかった。高周波ブレードによって深くえぐり取られた左肩の複合カーボン装甲には、応急処置として幅の広い白い保護テープが、まるで「包帯」のように痛々しく何重にも巻きつけられていた。
カレンが身じろぎした瞬間、シオンの顔面中央にある青いセンサーアイが、すっと輝度を上げた。
『……目覚めマシタカ、カレン刑事。バイタル、正常値ニ正常化。極度ノ過労状態、及ビ軽度ノ脱水症状ニヨリ、14時間ノ睡眠ヲ確認シマシタ』
スピーカーから響くのは、いつもの平坦で抑揚のない合成音声だった。 カレンは点滴の刺さった右腕を額に当て、小さくため息を漏らす。
「あんた……ずっとそこにいたの?」
『肯定。バディノバイタル監視ハ、警備ロボットノ基本任務プロトコルニ規定サレテイマス』
「ロボットの義務、ね。相変わらず、可愛げのない回答だわ」
カレンがぶっきらぼうにそっぽを向いた時、病室のドアが静かに開き、白衣を着た年配の看護師が入ってきた。
「あら、桐生さん、お目覚めね。本当に良かったわ」
看護師は親しみやすい笑みを浮かべ、点滴の残量を確認しながらシオンの不格好な「白い包帯」を優しく見つめた。
「昨夜は本当に驚いたのよ。このシオンさんが、あなたを濡らさないように大事そうに抱きかかえたまま、激しい土砂降りの中を秒単位の猛スピードで病院まで走ってきたんですもの。お医者様が『重度の過労による一時的な虚脱状態です。命に別条はありません』って説明するまで、シオンさん、バイタルの警告音を鳴らし続けながら……あなたの容態が落ち着いて深い眠りに入るまで、片時もそばを離れなかったんですよ。トイレに行く必要もないロボットだからって、本当に一歩も動かないんですから」
カレンは感情の起伏を見せず、淡々と、いつも通りの不愛想な声で答えた。
「同居してるんですから、ずっとそばにいるのは日常茶飯事です。バディなんですから、一歩も動かずに監視カメラの代わりをするのは当たり前ですよ」
『……肯定。看護師。私ハ患者ノ脈拍、心拍数、皮膚温度ヲ直接スキャンシ、心肺停止リスクヲ最小限ニ抑エル補助モニタートシテ、傍ラデ待機シテイタダケデス。特記スベキ主観的感情ハ存在シマセン』
冷淡に言い切るカレンの言葉を補強するように、シオンが平坦な電子音声で割り込んだ。
「誰も感情の有無なんて聞いてないわよ、鉄屑。……余計なことばっかり」
カレンは小さくため息をつくと、点滴のチューブを見つめた。
(カレン……。本当に、無事でよかった。冷たい態度を取られても、君がそうやっていつも通り『鉄屑』って毒づいてくれるだけで、僕は心から救われるよ。君が倒れたとき、僕、本当に頭のプロセッサーが焼き切れるかと思ったんだ。ロボットに心臓があったら、確実に止まっていたよ……)
シオンの鋼鉄の胸の奥深くで、かつて彼女に憧れていた人間の『ユウキ』が、安堵と、いつものカレンらしい頑なさに、密かな親愛の情を募らせていた。
しばらくして、カレンは点滴の落ちる先を見つめたまま、鋭い視線をシオンへと向けた。
「……ねえ。昨夜、私を助けたとき。あんた、確かに叫んだわよね。……『カレン刑事』って」
いつもは機械的に、一定のトーンで「カレン刑事」と発話するロボットが、あの瞬間だけはまるで魂を振り絞るかのような、激しい感情に満ちた叫び声を上げていた。 その異質さが、カレンの冷静な刑事としての直感に引っかかっていた。
ドクン、とユウキの魂が跳ね上がった。
(しまっ……! やっぱり気づかれてる! 昨夜、カレンが刺されそうになって、体が勝手に動いて、パニックのまま必死な声で叫んじゃったんだ。いつもは機械らしく淡々と呼ぶのに、あんな感情に満ちた叫び方をするなんて……。どうしよう。もし『僕だよ、ユウキだよ』なんて言ったら、僕は即座に警察の実験室に回収されて、分解されて、二度とカレンの隣で『盾』になることすらできなくなる……!)
シオンの内部で、過給冷却ファンが激しく回転し始める。 シオンはシステム上、嘘を吐くことができない。しかし、彼の自己診断システムは、魂の激しい情動による発声異常を「左肩破損時の過電圧ノイズ」と自動的に誤解析していた。シオンは、自ら嘘をつく代わりに、自己診断システムが自動で出力したエラーログ画面を無言でカレンへと提示した。
『システムログ・未解決エラー。昨夜ノ格闘戦闘時、左肩部装甲ヘノ超高周波ブレード直撃ニヨリ、音声出力モジュールニ瞬間的ナ過電圧ガ発生。音声合成ピッチガ一時的ニ乱レ、想定外ノ音圧上昇ト叫ビ(シャウト)ガ検出サレタ「物理的破損ニヨルバグ」ト解析サレマス』
「バグ、ね……」
カレンはふいと目をそらし、窓の外の雨空を見つめた。
「……そうよね。ただの演算バグ。あんたが、あいつみたいに私を名前で呼ぶはずがないもの」
寂しげに微笑むカレンの横顔。 その瞳には、以前のようなシオンに対するトゲトゲしい「敵意」や「嫌悪」はなかった。ただ、届かない過去への切ない未練と、目の前の「鉄の盾」に対する言葉にできない複雑な信頼の光だけが揺らている。
Hostility : 78% → 75% [Analysis: Silent acceptance]
(ごめん、カレン。システムはバグだって診断したけど、あれはバグなんかじゃないんだ。僕は、ずっと君を、ユウキとして守りたかった。……でも、今はこうやって自動のエラーログを盾にして、冷たい鉄の身体でそばにいることしかできないんだ)
二人の間に、静かで、冷徹な沈黙が流れる。
カレンが目覚めてから、数時間が経過した昼下がりのことだった。 コンコン、と病室のドアが控えめにノックされ、聞き慣れた親しみやすい声が響いた。
「やあ、カレンちゃん。意識が戻ったって看護師さんから連絡をもらってね。もう体調は落ち着いたかい?」
ドアを開けて入ってきたのは、作業用ツールバッグを肩にかけた天童湊だった。 アーク・システムズの若き代表であり、シオンの「親」とも言える天才技術者。
天童はカレンの点滴と元気そうな顔を見て胸をなでおろすと、すぐにシオンの側へと歩み寄った。
「カレンちゃんが無事で本当に良かった。シオン、お前もよく頑張ったね。……さあ、見せてごらん。その痛々しい、カレンちゃんお手製の『白い包帯』の下をね」
「私が巻いたんじゃないわよ! 看護師さんが適当に貼ったのよ!」
「はいはい」
天童は笑いながら、作業用タブレットを取り出してシオンの左肩をスキャンし始めた。 包帯代わりのテープを慎重に剥がすと、高周波ブレードによって深くえぐられた多層カーボンの内部構造が露出する。天童の手元から青いレーザーが照射され、ナノ定着による簡易的な応急修復が開始された。
「……シオン。お前、昨夜は相当無理な格闘をしたね。新型チタンフレームの剛性としなやかさがなかったら、左腕ごと引きちぎられていたよ。でも、おかげで『すごいお土産』を手に入れられた」
天童はタブレットの画面を操作し、カレンとシオンの前にホログラムの分析データを半透明に浮かび上がらせた。 そこには、昨夜シオンが敵の撤退時に千切り取った、「濡れたトレンチコートの切れ端」の分子構造モデルが不気味に回転していた。
「カレンちゃん、これを見てほしい」
カレンはベッドの上に身を起こし、天童が差し出したホログラムを怪訝そうに見つめた。 「……何これ。ただの極細の繊維データのようだけど。これが、昨夜のロボットの手がかりなの?」
「そう。これは、ロボットの関節のサーボモーター音、排熱、そして電磁レーザー発射時の微弱な放電ノイズを、すべて熱運動へと瞬時に変換して完全に消滅させる特殊な『常温超伝導ステルス繊維』だ。……実はこれ、僕たちがアーク社を立ち上げる前、桐生先生と一緒に、当時勤めていた『あのネオ・ロボティクス社』で開発されていたものなんだ。当時は製造コストが天文学的すぎて、民間用としては採算が合わないからってお蔵入りになった技術なんだけどね」
病室の温度が、一瞬にして凍りついたかのように下がった。
「コストでお蔵入りになった……? じゃあ、なんであの暗殺ロボットがそれを使っているの?」
カレンの問いに、天童は苦い表情で頷いた。 「……一般部門で開発中止になったその静音化技術を、軍事部門が採用して実用化した可能性が高い。だとしたら、榊を消したあのロボットの出処は――」
カレンの脳裏に、10年前のあの血の惨劇が鮮烈に蘇る。 自分の目の前で、父と母の命を奪い、父の遺産である『ファントム』を強奪して消えた、正体不明の襲撃者たち。あの事件は、今も警察のデータベースでは迷宮入りになったままだ。
「……私たちのいた会社の、軍事部門。お父さんのあの事件も、そこに繋がっているっていうの……?」
カレンの声が、怒りと、ついに宿敵の尻尾を掴みかけた緊迫感で微かに震える。
「わからない。でも、あのネオ・ロボティクス社の軍事部門、あるいはその周辺に、間違いなく『彼ら』の影がある。どちらにせよ、榊を消した奴らは、僕たちの過去、そして桐生先生の事件の真相に、限りなく近い場所にいるのは確実だ」
手がかりは、かつて自分たちがいた「ネオ・ロボティクス社」の軍事部門をめぐる闇。 迷宮入りしていた10年前の事件が、今、不気味な技術の系譜を通じて、現在のカレンの目の前へと一本の線で繋がろうとしていた。
「天童さん。シオンの肩は、今すぐ直せるの?」
「いや、多層ナノカーボンの熱定着修復には、アーク社のドックにある大型の定着炉が必要なんだ。最低でも丸一日はドックに預けることになるよ。簡易修復の今のアシスト状態じゃ、また強い衝撃を受けたらフレームが歪んでしまう」
天童がそう言うと、シオンは静かに一歩前に出て、カレンのベッドの前に静止した。
『カレン刑事。同様ニ、貴方ノバイタルデータモ深刻ナ疲労蓄積ヲ示シテイマス。主治医ヨリ、最低24時間ノベッド上デノ静養指示ガ出力サレテイマス。シオンノ完全修復、及ビ貴方ノ体力回復ノタメ、本日1日ノ完全静養ヲ提案シマス』
いつもなら、「そんな暇はないわ!」と点滴を引き抜いてでも飛び出していくはずのカレン。 しかし、カレンはシオンの応急処置を施された左肩の「包帯」をじっと見つめた。自分のために傷つき、熱を放ち、それでも頑なに自分を守り抜いた「鉄の塊」。
カレンはそっぽを向いたまま、点滴の針を睨みつけるようにして、ぶっきらぼうな声で言い放った。
「……明日私が退院して、あんたの肩の修理が終わったら……即、その繊維の流通ルートを叩き潰しに行くわよ。……遅れずについてきなさい」
カレンらしい、冷ややかで不愛想な、しかし強い意志の宿った命令。 その言葉が静かな病室に響いた瞬間。 シオンの青いセンサーアイが一瞬だけ、ほんの僅かに光を増した。
(て……)
ユウキの魂が、胸の奥で静かに息を呑んだ。
(『鉄屑』って……言われなかった……!) (名前すら呼ばれず、ただの『あんた』だけど……いつもの、あの冷たい蔑称を、一回も言われなかった……!!)
いつも自分を突き放し、冷たく「鉄屑」と呼んでいたカレンが、一歩も引かない毅然とした態度のまま、ただ隣に同行することを許してくれた。 それだけのことが、今のユウキにとっては、これ以上ないほどの救いであり、奇跡だった。胸の奥を走る温かいノスタルジーと電気信号が、鋼鉄の身体をそっと満たしていく。
シオンは傷ついた左肩をそっと庇うように、胸の前で深く一礼した。
『了解。……何処マデモ、カレン刑事ノ後ろニ追従シマス』
窓の外では、冷たい雨がゆっくりと上がり始め、雲の隙間から、ほんの少しだけ柔らかな光が病室へと差し込み始めていた。




