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第八章 ―― 訪れる者

その日は、朝から異様に静かだった。


風が止み、鳥の声も遠く、山全体が何かを待っているような気配をまとっていた。私はその違和感を、梅雨入り前の特有の空気だろうと思い込もうとした。けれど、彼は違った。


彼は、朝餉の箸を置き、金色の瞳を鋭く細めて、玄関の方向を見つめていた。


「……誰か来る。」


その言葉が、聞こえた瞬間だった。


「おーい!綾乃!いるのか!」


聞き覚えのある声。私は、思わず立ち上がった。


「――兄さん?」


戸を開けると、そこには確かに、幼い頃から見慣れた顔があった。村の共同作業で鍛えた筋骨隆々の体、日焼けした肌。私の兄、佐吉だった。


「綾乃!やっぱりここにいたのか!」


彼は、私の姿を確認すると、安堵と怒りが入り混じった表情を浮かべた。私は、何も言えずに立っていた。


「……なぜ、ここへ。」


「なぜだ?お前が、勝手に村を出て、この山奥で鬼と一緒に暮らしていると聞いて、気が気じゃなかったんだ!」


兄の声が、山に響く。私は、彼の背後に立っている護を見た。彼は、立ったまま、動かずに兄を見つめている。その金色の瞳は、警戒の色を帯びていた。


「……お前が、鬼か。」


兄が、護に視線を向けた。その目には、明らかな敵意があった。


「よくも、我が妹を――」


「やめてください!」


私は、兄と護の間に立ちはだかった。


「兄さん、これは私が選んだことです。護は、何も悪いことはしていません。」


「悪いことをしていない?鬼が、何を言うか。鬼は人を喰らい、人を呪う。それがこの世の道理だ!」


兄の言葉が、護の眉をひそめさせた。けれど、彼は何も言い返さなかった。ただ、黙って、その言葉を受け止めている。


「……お前を、連れて帰る。村には、ちゃんとした縁談もある。お前は、こんなところで終わる女じゃない。」


「行きません。」


私は、はっきりと言った。


「私は、ここにいます。護と一緒に。」


兄は、一瞬息を呑んだ。そして、怒りを込めた声で言った。


「……お前、分かっているのか。奴は鬼だぞ。人間じゃないんだ。いつお前を傷つけるか、分からないんだぞ。」


「護は、自分を傷つけてきました。人を傷つける前に、自分を。」


私は、兄の目をまっすぐに見つめて言った。


「この人は、鬼だから人を傷つけるのではありません。この人は、人を護りたいから、自分を傷つけてきたのです。」


兄は、口を開けて、しばらく何も言えなかった。


「……そんな馬鹿な。」


「馬鹿なのは、鬼だからと決めつける方です。兄さん、あなたは護を知りもしないで、鬼というだけで憎んでいます。私は、その人を知っています。その人の、冷たい手の温もりを。その人の、不器用な優しさを。」


背後で、護が小さく息を呑んだ。


兄は、私の言葉を聞いて、何度か首を振った。そして、諦めたように、大きなため息をついた。


「……お前は、昔から頑固だな。母さんも言っていた。綾乃は、一度決めたら絶対に曲げないって。」


「母さんも、そう言っていました。」


私は、少しだけ笑った。


「……分かった。今日は、帰る。だが、お前のことは見守っている。もし何かあったら、いつでも村に来い。……それから、鬼よ。」


兄が、護に向き直った。


「俺は、お前を信じていない。けれど、妹がお前を選んだのなら、それを受け入れる。ただし――妹を泣かせたら、許さないからな。」


護は、一瞬驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと頷いた。


「……泣かせはしない。」


その言葉は、短く、しかし確かな力を持っていた。


兄が去った後、家の中には、重い沈黙が流れていた。彼は、囲炉裏の前に座り、何も言わずに火を見つめている。


私は、彼の隣に座った。


「……護。」


「……お前の兄は、正しいことを言った。」


彼は、うつむいたまま言った。


「私は鬼だ。いつ、お前を傷つけるか分からない。」


「あなたは、自分を傷つけてきた。」


「……それでも、いつかは――」


「いつかは、何ですか。」


私は、彼の手を取った。藍色の紐が、彼の手首に巻かれている。私が編んだ、その紐を。


「あなたが、もしも私を傷つけることがあるなら、その時は私があなたを止めます。あなたがもしも自分を傷つけようとするなら、その時は私があなたの手を握ります。」


彼は、顔を上げた。金色の瞳が、揺れている。


「……なぜ、そこまで。」


「なぜって――」


私は、微笑んだ。


「――あなたが、私の夫だからです。それだけです。」


彼は、しばらく私の顔を見つめていた。そして、ゆっくりと、自分の手首の紐を撫でた。私が編んだ、その紐を。


「……この紐は、もう外さない。」


「はい。」


「……お前の指の感触も、忘れない。」


「はい。」


「……お前の言葉も、全部、覚えている。」


その言葉に、私は涙が込み上げるのを堪えきれなかった。


その夜、私は彼の手を握ったまま、思った。兄が来たことで、私は自分の決意を改めて確かめた。私は、この山を選んだ。この人を選んだ。それが、誰に何と言われようと、変わらない。


――鬼と人。その境界線は、確かに存在する。けれど、その線を超えた先に、私たちは確かに立っている。明日も、その先を歩こう。誰にも邪魔されない、私たちだけの道を。

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