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第九章 ―― 雨音の向こう

その日は、朝から土砂降りの雨だった。


窓を叩く雨の音が、家の中に低く響く。いつもなら山鳥の声が聞こえる時間帯も、今日は雨音だけが世界を満たしていた。


私は布団の中で目を覚まし、隣の布団を見た。彼は、もう起きていた。囲炉裏の前に座り、火の始末をしている。けれど、その手つきはいつもより少しだけゆっくりで、何かを考えているように見えた。


「……おはようございます、護。」


私が声をかけると、彼は振り返った。その顔に、いつもの穏やかな表情はなかった。代わりに、どこか遠くを見るような、ぼんやりとした目をしていた。


「……雨だな。」


彼は、ただそれだけ言って、また火の方に向き直った。


私は、その背中を見ながら、少し不安になった。彼は雨の日、いつもより無口になる。梅雨入りしてから数日が経ち、私はそのパターンに気づき始めていた。けれど、その理由はまだ、知らなかった。


朝餉を食べながら、私は思い切って尋ねた。


「……護は、雨の日が苦手ですか。」


彼は、箸を止めた。しばらく沈黙した後、ぽつりと言った。


「……雨音が、嫌いだ。」


「どうしてです。」


「……雨の日は、忘れていたことを思い出すから。」


彼は、自分の手を見つめた。藍色の紐が、彼の手首に巻かれている。私は、それを見て、少しだけ安心した。彼は、あの紐をまだ外していない。


私は、席を立ち、彼の隣に座った。


「……何を思い出すのですか。」


彼は、しばらく答えなかった。雨音だけが、部屋に満ちている。そして、彼の指が、無意識に自分の爪を撫で始めた――あの傷跡のある爪を。


「……雨の日は、彼女を思い出す。」


彼が言ったのは、あの過去に愛した人のことだった。


「……彼女も、雨の日が好きだった。雨が降ると、外に出て、濡れるのを喜んでいた。」


その言葉は、ひどく優しい口調だった。彼が、まだその女性を大切に思っていることが、よく分かる。


「……それで、あなたも雨が好きだったのですか。」


「……好きだった。彼女と一緒に、雨に濡れた。あの頃は、雨音が、音楽に聞こえた。」


彼は、そこで言葉を止めた。そして、震える声で続けた。


「……けれど、彼女を失った日も、雨だった。あの日、私は、雨の中で、彼女の名前を叫びながら、走った。――それ以来、雨音は、もう音楽には聞こえない。」


私は、彼の手を握った。彼の指は、冷たかった。けれど、その冷たさは、いつもの彼の冷たさとは違っていた。どこか、張りつめたような、危うい冷たさだった。


「……護。」


私は、彼の名前を呼んだ。


「あなたは、今、ここにいます。私は、あなたの隣にいます。」


彼は、顔を上げた。金色の瞳が、雨の日の薄暗がりの中で、かすかに輝いている。


「……私は、あなたに代わりにはなれないかもしれません。けれど、私は、あなたと一緒にいることを選びました。あなたが雨の日を思い出すなら、私はその思い出に付き添います。あなたが過去を語るなら、私はその話を聞きます。」


彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、私の手を握り返した。少し、迷いのある握り方だったけれど、確かに、彼から握り返してきた。


その日、私たちは、雨音の中で、一日中座っていた。彼が時折、過去の断片を語る。彼女の笑い声。彼女の好きだった花。彼女が編んでくれた紐のこと。


私は、その一つ一つを、心に刻んだ。


夕方、雨が小降りになった。空が、少し明るくなる。私は、立ち上がった。


「……護、外に出ましょう。」


「……雨が降っている。」


「いいえ、もう止みかけています。それに――」


私は、彼の手を引いた。


「――あなたに、見せたいものがあります。」


彼は、困惑したように首を傾げたけれど、私に引かれるまま、縁側に出た。


雨上がりの山は、光に満ちていた。水滴が木々の葉にきらめき、地面からは土の匂いが立ち上る。遠くの山肌には、かすかに虹がかかっていた。


私は、彼を山梅の木の前に連れて行った。あの、一緒に山梅を摘んだ場所だ。


「……見てください、護。」


彼が、顔を上げる。


そこには、薄紅色の花が、一面に咲き誇っていた。先週まではまだ蕾だったのに、雨が降ったことで、一気に開いたのだ。


「……きれいだ。」


彼は、小さく息を吐いた。


「そうでしょう。あなたが教えてくれたこの場所は、今、花でいっぱいです。この花は、あなたがここに来て、山梅を摘んだからこそ、咲いたのです。あなたが、この場所を覚えていたからこそ、私はこの景色を見ることができました。」


彼は、しばらく花を見つめていた。そして、ぽつりと言った。


「……明日も、花は咲いているか。」


「はい。明日も、明後日も。そして、あなたがこの場所を覚えている限り、ずっと。」


彼は、私の方を向いた。その瞳に、雨の日の曇りはもうなかった。代わりに、あの、澄んだ金色の光があった。


「……綾乃。」


彼が、私の名前を呼んだ。


「……ありがとう。」


その言葉は、短かった。けれど、その一言に、彼の心のすべてが込められているように思えた。


その夜、雨は上がり、星が雲間から顔を出した。私は布団の中で、隣の彼の寝息を聞きながら思った。


雨の日は、彼にとって過去を思い出す日だった。けれど、今日、私はその過去に少しだけ寄り添うことができた。そして、雨上がりの花を、彼と一緒に見ることができた。


明日は、また晴れるかもしれない。それとも、また雨が降るかもしれない。けれど、どちらでもいい。私が彼と一緒にいられるなら、雨音も、やがては音楽に変わるはずだ。


――そう信じて、私は目を閉じた。

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