第十章 ―― 百夜
今日で、私たちが一緒に暮らし始めて、ちょうど百日目だった。
朝、目を覚ましたとき、私はそのことに気づいた。正確に数えていたわけではない。けれど、山梅の花が咲き、雨が降り、また晴れた。その繰り返しが、確かに百回を超えていた。
私は布団の中で、隣の彼の寝顔を見た。彼はまだ眠っている。長い睫毛が、朝日に影を作っている。その顔は、鬼のそれでありながら、どこか無防備で、子供のように見えた。
私は、そっと起き上がり、支度を始めた。
今日は、特別な日だ。何か、彼に贈りたい。彼に伝えたい。百日間、彼と一緒に生きてきて、ようやく分かったことがある。
朝餉の支度をしながら、私は彼に言った。
「……護。今日は、一緒に少し遠くまで行きませんか。」
彼は、箸を止めて、首を傾げた。
「……どこへ。」
「あの滝です。最初にあなたが連れて行ってくれた、あの小さな滝。」
彼は、少し考えた後、頷いた。
「……いいだろう。」
私たちは、弁当を持って山へ向かった。道すがら、彼は時折、木の実や花を指さして、名前を教えてくれた。彼の声は、雨の日の曇りがすっかり晴れて、穏やかだった。
滝に着くと、私たちは岩場に腰を下ろした。水しぶきが、日差しにきらめいている。私は、弁当を広げ、彼に飯を手渡した。
「……護。」
「ん。」
「あなたは、私にとって、最初の百日間をどう感じましたか。」
彼は、飯を口に入れる手を止めて、少し考えた。そして、ぽつりと言った。
「……短かった。」
「短かった?」
「……長い人生の中で、百日は短い。けれど、この百日は、今までのどの百日よりも、濃かった。」
私は、その言葉に胸が熱くなった。彼は、こんなに率直なことを言うことがある。そのことに、私はいつも驚かされる。
「……私もです。この百日は、私の人生で一番濃い日々でした。」
私は、彼の手を取った。藍色の紐が、彼の手首に巻かれている。
「……護。私は、あなたに伝えたいことがあります。」
彼は、金色の瞳で、私を見つめた。
「あなたは、自分を罰してきました。自分が鬼になったことを。自分が愛した人を傷つけたことを。自分が、人ではないことを。」
彼の目が、わずかに揺れた。
「けれど、もう、罰を終わりにしませんか。」
「……何を言っている。」
「あなたは、もう十分に罰せられました。あなたは、自分を傷つけ、孤独に生き、誰にも愛されないと思ってきました。けれど、私はここにいます。あなたを罰するために来たのではありません。」
私は、彼の手首の紐に、自分の指を重ねた。
「あなたを愛するために、来たのです。」
彼は、一瞬息を呑んだ。金色の瞳が、大きく見開かれる。
「……そんな、」
「嘘じゃありません。」
私は、彼の目をまっすぐに見つめた。
「私は、あなたを愛しています。鬼だからではありません。人間だからでもありません。ただ、護というあなたを。山で手を引いてくれたあなたを。雨の日に過去を語ったあなたを。編んだ紐を外さずにいてくれるあなたを。」
彼の手が、震えている。
「……私には、そんな資格はない。」
「資格なんて、どこにもありません。愛に、資格はいらないのです。」
私は、彼の手を握ったまま、立ち上がった。そして、彼の前に立ち、ゆっくりと彼の角に手を伸ばした。
「……あなたのこの角を、私は怖いと思ったことは一度もありません。あなたのこの爪も、私は恐れたことはありません。あなたのすべてを、私は受け入れます。」
指先が、彼の角の根元に触れる。彼の肩が、びくりと震えた。
「……だから、もう、自分を罰さないで。あなたのその手で、自分を傷つけないで。」
彼は、うつむいたまま、何も言わなかった。けれど、彼の肩が、小さく震えている。私は、その震えを見逃さなかった。
「……護。」
私は、彼の顔を両手で包み込んだ。彼の頬が、濡れている。涙だ。
鬼が、涙を流す。その事実が、私の胸に深く響いた。
「……綾乃。」
彼の声が、震えている。
「……私は、お前を、」
「はい。」
「……お前を、愛している。お前だけを、」
私は、彼の言葉を、全身で受け止めた。その言葉が、百日の日々を経て、ようやく彼の口から紡がれたことに、深い感動を覚えた。
「……ありがとう、護。」
私は、彼の頬を撫でながら、微笑んだ。
「あなたのその言葉が、私の百日の最高の贈り物です。」
その夜、家に戻り、囲炉裏の火を囲みながら、私たちは手を繋いで座っていた。
「……護。」
「ん。」
「明日からも、一緒にいましょう。」
「……ああ。」
「明後日も、その翌日も。」
「……ああ。」
「あなたが、鬼である限り、私はあなたの妻です。」
彼は、私の手を強く握り返した。
「……私も、お前が人間である限り、お前の夫だ。」
その言葉に、私はすべての不安が消え去るのを感じた。
――百日。それは、私たちが共に歩んだ最初の日々だった。けれど、これからもっと長い時間を、私たちは共に生きる。鬼と人。それが何であれ、私たちはそれを受け入れた。そして、その先に、新しい季節が待っている。
私は、彼の手を握りながら、目を閉じた。
明日も、この手を離さない。それが、私の決意だった。




