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第十一章 ―― 陽だまりの中で

あの日から、彼の笑顔が増えた。


「増えた」と言っても、それはほんのわずかな変化だ。口元がわずかに緩む回数が、少しだけ多くなった。目が合ったときに、ほんの一瞬だけ、目尻が下がる。それだけのことだ。


けれど、私はその一瞬一瞬を、見逃さなかった。


ある朝、私は布団の中で目を覚まし、いつものように彼の背中を数えた。彼は、囲炉裏の前に座り、薪を組んでいる。その手つきが、私と暮らし始めた頃に比べて、ずっと滑らかになっていた。


「……おはようございます。」


私が声をかけると、彼は振り返り、小さく頷いた。


「……おはよう。」


その返事に、私は胸が温かくなった。以前は、返事すらなかった。それが、今ではこうして挨拶を返してくれる。


朝餉を食べているとき、彼が突然言った。


「……今日は、晴れる。」


「そうですね。窓の外が明るいです。」


「……滝に行くか。」


私は、箸を止めた。彼の方を見ると、彼はうつむいたまま、茶碗の縁を指でなぞっている。


「……また、あの滝に。」


「……嫌か。」


「いいえ!」


私は、思わず声を上げてしまった。彼が、驚いたように顔を上げる。


「……行きたいです。とても。」


彼は、ほっとしたように、口元をわずかに緩めた。


「……なら、行こう。」


その日、私たちはまた、あの滝へ向かった。もう何度目かの道のりだ。けれど、そのたびに、景色が違って見える。前回は花が咲いていた。今回は、木々の葉が一段と深い緑に変わっている。


滝に着き、岩場に座る。彼は、私の隣に座り、水しぶきを眺めている。その横顔が、穏やかだ。以前は、ここに来てもどこか緊張した様子だった。けれど、今は違う。彼は、この場所を、自分のものとして受け入れているように見える。


「……護。」


「ん。」


「あなたは、最近、よく笑いますね。」


彼は、少し驚いたように私を見た。そして、すぐにそらす。


「……笑ってなど、いない。」


「笑っていますよ。ほら、今も。」


私は、彼の口元を指さした。彼は、あわてて自分の口元を手で隠す。その仕草が、あまりにも子供じみていて、私は思わず笑い声を漏らした。


「……笑うな。」


「だって、あなたが笑うからです。」


「……馬鹿な。」


彼は、そう言ったけれど、その口元は、隠しきれずにわずかに上がっていた。


私は、彼の手を取った。藍色の紐が、彼の手首に巻かれている。私は、その紐を撫でながら言った。


「……護。あなたが笑うと、私も嬉しくなります。」


「……なぜだ。」


「なぜって――」


私は、彼の目を見つめた。


「――あなたが幸せそうだからです。それだけで、私は十分です。」


彼は、しばらく私の顔を見つめていた。そして、ゆっくりと、自分の手を私の手に重ねた。


「……綾乃。」


「はい。」


「……お前も、笑え。お前の笑顔が、私は好きだ。」


その言葉に、私は言葉を失った。彼が、こんなにストレートに感情を言葉にする日が来るとは。


私は、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、笑顔を作った。


「……はい。護がそう言うなら、私はいつでも笑っています。」


彼は、満足そうに頷いた。その仕草が、また愛おしかった。


帰り道、彼はふと立ち止まり、木の枝に手を伸ばした。そして、小さな花を一輪、摘んだ。それは、白い小さな花だった。


「……これを。」


彼は、私の前にその花を差し出した。私は、驚いてそれを受け取った。


「……護、これは。」


「……お前に、似合うと思った。」


私は、その花を両手で抱えるようにして受け取った。花は、小さかった。けれど、彼が摘んでくれたというその事実が、何よりも尊かった。


「……ありがとう、護。」


「……うむ。」


彼は、うつむいて歩き出した。その背中は、少し照れくさそうに見えた。


夜、家に戻り、私はその花を水に挿した。小さな花が、棚の上で、ひっそりと咲いている。


「……護。」


「ん。」


「この花、何ていう名前ですか。」


「……白梅草。この山にしか咲かない。」


「この山にしか。」


「……ああ。俺が、一番好きな花だ。」


私は、その言葉に胸が熱くなった。彼が一番好きな花を、私に摘んでくれた。それは、彼が私に贈れる最高のものを、選んでくれたということだ。


「……護。私は、この花をずっと覚えています。あなたが摘んでくれた、この白梅草を。」


「……馬鹿な。花は、すぐに枯れる。」


「枯れても、覚えています。あなたの指が、この花に触れたことを。あなたが、私に似合うと言ってくれたことを。」


彼は、何も言わなかった。けれど、その耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。


その夜、布団の中で、私は彼の方に向いた。


「……護。」


「……何だ。」


「あなたは、何か願いはありますか。」


彼は、少し考えた。そして、静かな声で言った。


「……お前と、ずっと、こうしていたい。」


「……それだけですか。」


「……それだけで、十分だ。」


私は、その言葉を、胸の奥深くに刻んだ。


――彼が願うのは、それだけ。特別なことは何もいらない。ただ、一緒にいること。それが、彼の願いだ。私は、その願いを叶えるために、これからも彼の隣にいる。


明日も、彼の笑顔を見よう。彼が花を摘んでくれるなら、私はその花を飾ろう。彼が手を差し伸べてくれるなら、私はその手を握ろう。


――それが、私たちの日常だ。何気ない、けれど、かけがえのない、日常。

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