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第七章 ―― 編むということ

梅雨の気配が、山に漂い始めたある日のこと。


私は、彼の着物の袖口を直しながら、ふと思った。彼の着物は、どれも古く、擦り切れていた。彼が大切にしているのは分かる。けれど、もう少し新しいものを、彼に贈りたい。


「……護。あなたに、何か編んでいいですか。」


彼は、囲炉裏の前で薪を組みながら、首を傾げた。


「……編む?」


「はい。紐か、あるいは帯のようなもの。この古い着物に合わせて。」


彼は、しばらく黙って考えた。そして、小さく頷いた。


「……好きにしろ。」


私は、その言葉に胸を躍らせながら、家の中に残っていた麻の糸を探した。色は、何か落ち着いたもの。彼の黒い着物に合う、濃い藍色の糸を見つける。少し太めの、しっかりとした糸だった。


その夜から、私は編み始めた。太い針に糸を通し、一つ一つ、丁寧に編み目を作っていく。簡単なものだ。結び目をしっかりと作り、それを繰り返すだけ。けれど、彼のために編むということが、なぜかひどく緊張させた。


彼は、時折こっちを盗み見ながら、何も言わずに囲炉裏の火を眺めている。その様子が、子供のように無邪気で、私はつい口元が緩んだ。


編み進めるうちに、私は彼の手のサイズを思い出していた。彼の指の長さ、手首の太さ、そして――彼の爪の、あの傷跡。


「……護。」


「ん。」


「あなたの爪の傷は、どうしてできたのですか。」


彼は、一瞬止まった。そして、ゆっくりと自分の手を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼が言った。


「……自分を、罰した。」


「罰?」


「……人を傷つけた。その罰として、自分の爪で、自分を刻んだ。」


私は、針を止めた。息を呑む音が、自分でも聞こえるほどだった。


「……誰を、傷つけたのですか。」


彼は、長い間答えなかった。炎の揺らめきだけが、部屋を満たす。やがて、彼がぽつりと言った。


「……もう、覚えていない。けれど、たぶん、愛した人だ。」


その言葉は、私の胸に深く刺さった。愛した人。彼は、過去に誰かを愛し、そして傷つけ、その罰として自分を傷つけた。その事実が、彼の長い人生の重みを、一瞬で私に突きつけた。


私は、編み続けた。指先が、少し震えていたけれど、彼に気づかれないように、慎重に糸を通す。


「……護。」


「ん。」


「私は、あなたを罰しません。」


彼は、顔を上げた。金色の瞳が、炎に照らされて揺れる。


「あなたが過去に何をしたとしても、私はあなたを責めません。あなたは、今、ここにいます。それで十分です。」


彼は、何も言わなかった。けれど、その瞳が、わずかに潤んでいるように見えたのは、炎のせいだけだろうか。


数日後、私は編み終えた紐を、彼の手首に巻き付けた。藍色の麻の紐は、彼の黒い着物によく似合っていた。彼は、自分の手首を見下ろし、何度か指でその感触を確かめた。


「……温かいな。」


「麻ですから、冷たくはないでしょう。」


「いや。」


彼は、首を振った。


「……お前が編んだから、温かい。」


私は、その言葉に、言葉を失った。彼が、こんなに率直なことを言う日が来るとは、思ってもみなかった。私は、彼の手首の紐を撫でながら、言った。


「……これを、私の代わりだと思ってください。私があなたの側にいないときも、この紐があなたを守ります。」


「……馬鹿な。」


彼は、そう言ったけれど、その手でそっと紐を撫でていた。その仕草が、何よりも愛おしかった。


その夜、布団の中で、私は彼の方を向いた。


「護。」


「……何だ。」


「あなたが愛した人のこと、教えてくれますか。」


彼は、少し沈黙した。そして、静かな声で語り始めた。


「……それは、まだ人間だった頃のことだ。村の娘だった。私は、彼女を護ると誓った。けれど、私は鬼になった。その日から、彼女の前から消えた。」


「……彼女は、」


「……もう、いない。長い年月が経った。たぶん、もう誰も覚えていない。」


その言葉に、私は自分の胸が痛むのを感じた。彼が、どれだけの孤独を背負ってきたのか。愛した人を守れなかった悔しさ。自分が鬼になったことで、すべてを失った絶望。


私は、布団から手を伸ばし、彼の手を探した。指先が、彼の手首の――あの編んだ紐に触れる。


「……護。私は、あなたを覚えています。あなたの名前を、あなたの手の温もりを、あなたが山で教えてくれたすべてのことを。」


彼は、何も言わなかった。けれど、彼の指が、私の指に重なった。


「……明日も、覚えていてくれ。」


「はい。明後日も、その翌日も。」


彼の指が、少しだけ震えていた。けれど、それは悲しみの震えではなかった。――安堵の震えだった。私は、そのことを確かに知っていた。


――彼は、ずっと忘れられることを怖がっていたのだ。誰にも覚えてもらえないことが、彼の一番の恐怖だった。私は、その夜、彼の孤独の本当の重さを知った。そして、その重さを、少しでも分かち合えるように、私は彼の手を握り続けた。

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