第六章 ―― 山の中の彼
約束の翌日、私たちは一緒に山へ向かった。
朝露がまだ草の先に光る時間、彼は私の前に立ち、振り返って言った。
「……道は険しい。無理はするな。」
「はい。護が先に立ってください。」
彼は、一瞬だけ困ったように眉を動かしたが、やがて背を向けて歩き出した。その背中は、いつもの家の中のそれとは違っていた。緩みがなく、緊張した獣のような――あるいは、この山の一部であるかのような、自然な構えだった。
私は、彼の後ろを必死に追いかけた。
山道は、想像以上に細かった。苔むした石が足元にごろごろと転がり、木の根が地面を這っている。一歩間違えれば、足を取られそうになる。私は何度かよろめきながらも、彼の背中だけを見つめて歩いた。
しばらく登ると、彼が突然立ち止まった。
「……ここだ。」
私は彼の横に立ち、息を整えながら前方を見た。そこには、小さな谷間があった。木々が少し開け、地面には一面に――山梅の木が、何本も生い茂っていた。薄紅色の花が、今まさに咲き始めている。
「すごい……こんな場所があったのですね。」
「……昔、一人でよく来ていた。」
彼は、遠くを見るような目で言った。その横顔は、少しだけ寂しげだった。一人でこの場所に来ていた日々。誰にも見せず、誰とも分かち合わず、ただ黙って山梅を摘んでいた彼の姿が、瞼の裏に浮かぶ。
私は、彼の袖を引いた。
「護。ここで、私も覚えます。あなたが知っているこの山を。」
彼は、私を見下ろした。金色の瞳が、朝日に煌く。その瞳に、かつての澱みはもうなかった。
「……無理するなよ。」
「はい。」
私は、足元に生える山梅の木に手を伸ばした。指先が、小さな赤い実に触れる。その瞬間、バランスを崩した。
「あっ――」
足元の石がずれ、体が後ろに倒れかける。私は、思わず目を閉じた。
次の瞬間、強い腕が私の背中を支えていた。彼の腕だ。まさに、あの熱の夜と同じように。しかし、今度はもっと確かな力で、もっと迷いのない手つきで。
「……気をつけろ。」
彼の声が、すぐ耳元でした。
私は、彼の腕に抱えられたまま、息を飲んだ。彼が、こんなにも近くにいる。彼の体温が、背中越しに伝わってくる。ずっと冷たいと思っていた彼の体が、今はひどく温かく感じられた。
「……大丈夫だ。」
彼は、私をゆっくりと地面に戻した。その手が、私の肩から離れる。一瞬の寂しさが、胸をよぎった。
けれど、その直後、彼の手が私の手を取った。
「……ここからは、手を繋ぐ。」
私は、言葉を失った。彼は、顔をそらしながら、言葉を継ぐ。
「……お前がまた転ぶと、面倒だから。」
嘘だった。彼は、私が転ぶのを怖がっているのではない。ただ、私の手を繋ぎたかったのだ。それを、不器用な言葉で隠している。私は、そのことに気づいて、胸の奥が熱くなった。
「……はい。手を離しません。」
私は、彼の指を握り返した。彼の指は、相変わらず少し冷たい。けれど、その冷たさが、今は心地よかった。
その日、私たちは手を繋いだまま、山の中を歩いた。彼が一つ一つの木を指さし、これが何の木か、どんな実がなるのかを教えてくれた。口数は少なかったけれど、その一つ一つが、彼がこの山をどれほど愛しているかを物語っていた。
帰り道、谷間を抜ける道で、彼がふと立ち止まった。
「……見ろ。」
彼が指さした先に、小さな滝があった。水量は多くないけれど、朝の光に照らされて、水しぶきが虹を作っている。
「美しい……」
私は、思わず息を漏らした。
「……昔、この滝を見ながら、よく考えていた。」
彼は、ぽつりと言った。
「何を考えていたのですか。」
「……自分は、なぜ生まれたのか。なぜ、鬼になったのか。」
私は、彼の手を握る力を強めた。彼は、私の横顔を見ずに、続ける。
「……答えは、出なかった。けれど、今は――」
彼は、少し間を置いた。
「――この景色を、お前に見せたかった。それで、十分だと思えた。」
その言葉に、私は涙が込み上げるのを必死に堪えた。彼は、自分自身の長い問いの答えを、私に見せることに見出したのだ。それが、どれほどの意味を持つか、彼自身は気づいていないかもしれない。
帰りの道すがら、私は彼の手を握ったまま言った。
「護。」
「……ん。」
「また来ましょう。この滝に。今度は、おにぎりを持って。」
彼は、少しだけ口元を緩めた。
「……ああ。」
その一言が、私の胸に、静かに、しかし確かに響いた。
夜、家に戻り、囲炉裏の火を囲みながら、私は彼の手を見つめた。今日一日、私の手を握っていたその手。山の中で、私を支え、導いてくれたその手。
「……護。」
「何だ。」
「あなたの手は、温かいですね。」
彼は、一瞬驚いた顔をした。そして、自分の手のひらを見つめ、小さく首を振った。
「……冷たいはずだ。」
「いいえ、温かいです。あなたが思っているより、ずっと。」
彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、少しだけ私の手を強く握り返した。
今夜もまた、私たちは手を繋いで眠る。それが、私たちの新しい夜の習慣になった。
――山の中で、彼は私の手を取った。それは、彼が初めて選んだ、自らの意思での接触だった。明日は、もっと先の道を歩こう。二人で、この山の全てを知るために。




