第五章 ―― 山の恵み
目を覚ましたとき、彼の布団はもう冷え切っていた。
いつもなら、囲炉裏のそばで彼が火の始末をしているはずだ。けれど、その朝は違った。囲炉裏の灰は冷たく、薪も積まれたままになっている。彼が、まだ一度も火を起こしていないことを示していた。
私は、心臓が一瞬止まるような感覚を覚えた。
――どこへ。
布団から飛び起き、部屋を見回す。彼の着物はない。彼の履物もない。彼は、私に何も告げずに、どこかへ行ってしまったのだ。
その事実が、驚くほどに私の胸を締め付けた。
彼がいつもそこにいることが、当たり前になっていたのだ。彼の背中を見てから一日が始まる。それが、私の新しい日常だった。なのに、その日常が、たった一晩で崩れ去った。
私は縁側に出て、山の方を眺めた。朝靄が立ち込め、木々の輪郭がぼんやりと滲んでいる。彼の気配は、どこにもなかった。
――待っていよう。
そう決めて、私は囲炉裏に火を起こした。一人で薪を組み、火打ち石を打つ。彼がいつもやっている動きを、慎重に真似る。少し時間はかかったが、やがて小さな炎が薪を舐め始めた。
水を汲み、米を研ぐ。一人でやる作業は、どれもやけに手間取った。彼の手が、あの大きな手が、この家の中でどれほどの仕事をこなしていたのか、初めて実感した。
二度目の水汲みに行ったときだった。
山道の入り口に、彼が立っていた。
大きな背中に、背負い籠を担いでいる。籠の中には、何かがぎっしりと詰まっていた。彼の着物の裾は泥で汚れ、袖口には小さな葉っぱが何枚か引っかかっている。
彼が、こちらに気づいた。金色の瞳が、少しだけ見開かれる。
「……起きていたのか。」
「あなたこそ、いつから出かけていたのですか。」
私は、自分が少しだけ怒っていることに気づいた。それは、怒りというよりも、心配と安堵が入り混じった、複雑な感情だった。
彼は、何かを言いかけて、やめた。そして、黙って玄関に歩いていき、背負い籠を降ろした。中を覗くと、山菜や木の実、それから――小さな、赤い実がいくつも入っていた。
「……山梅。」
私は、思わず声を漏らした。
「あなた、これを採りに行っていたのですか。」
彼は、うつむいたまま、小さく頷いた。
「……お前が、この前、懐かしいと言っていた。子供の頃、食べたことがあると。」
私は、息を呑んだ。
――確かに、数日前のことだ。何気なく、子供の頃に母が山梅の甘煮を作ってくれた話をした。それは、ただの思い出話だった。彼が聞いているとは思っても、ましてや、それを覚えているとは思ってもいなかった。
「……私のために。」
私は、声が震えるのを必死に抑えた。
「あなた、私のために、山に登ったのですか。」
彼は、相変わらずうつむいたまま、言葉を濁した。
「……ただ、思い出しただけだ。」
「護。」
私は、彼の新しい名前を呼んだ。彼の肩が、びくりと震える。
「あなたは、私のために、朝早くから山に登った。そして、山梅を採ってきた。そうでしょう。」
彼は、しばらく沈黙した。そして、ほとんど聞こえない声で言った。
「……お前が、喜ぶかと思って。」
その言葉に、私はとうとう涙がこぼれ落ちた。
彼は、私の涙を見て、慌てたように手を伸ばした。けれど、途中で止める。まだ、彼の手は、勝手に人の涙を拭うことを許していない。
私は、自分で涙を拭い、笑顔を作った。
「……ありがとう。護。」
彼は、何も言わなかった。けれど、口元がほんの少しだけ緩んだ。それで、十分だった。
その日は、彼が採ってきた山梅で甘煮を作った。彼が手伝おうとしたが、私は笑って断った。
「今日は、あなたにご馳走をします。私に任せてください。」
彼は、困ったように眉をひそめたが、素直に囲炉裏のそばに座った。時折、こちらを盗み見ながら、何か言いたそうにしている。
甘煮ができあがり、二人で茶碗に盛った。赤い実が、飴色に透き通り、湯気が立ち上る。
彼が、一つを口に入れた。咀嚼する音が、静かな部屋に響く。そして、彼が言った。
「……甘い。」
「はい。山梅は、甘く煮ると美味しいのです。」
彼は、もう一つを口に入れ、今度はゆっくりと味わうように噛んだ。その横顔が、子供のように無防備で、私はまた胸が熱くなった。
「……護。」
「ん。」
「また、一緒に山に行きましょう。」
彼が、顔を上げた。
「……一緒に。」
「はい。あなたが山梅を採る場所、私は知りません。今度は、教えてください。二人で、この山のことを覚えていきましょう。」
彼は、金色の瞳をわずかに揺らした。そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。そうしよう。」
その夜、布団の中で、私は小さく呟いた。
「護。」
「……何だ。」
「あなたは、今日、初めて私のために何かをしましたね。」
彼は、少しの間、黙っていた。そして、ぼそりと言った。
「……迷惑だったか。」
「いいえ。」
私は、暗がりの中で首を振った。
「――とても、嬉しかったです。」
彼からは、返事がなかった。けれど、隣の布団から、彼が体の向きを変える音が聞こえた。こちらの方を向いて、寝返りを打ったのだ。
その夜、私は思った。
彼は、私のために山に登った。私の言葉を覚えていて、私が喜ぶ顔を見たくて、あの険しい山道を歩いた。その事実が、私の胸に、確かな温もりを残している。
明日は、彼に何を作ろうか。彼が採ってきたもので、何か美味しいものを作ろう。
そうやって、私たちは少しずつ、この山の中で、自分たちだけの季節を作っているのだ。
――誰にも邪魔されない、小さな、小さな季節を。




