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第四章 ―― 名前を呼ぶということ

熱が下がった翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。


障子の向こうはまだ薄暗く、鳥の声も遠くに聞こえるだけだ。けれど、体は不思議と軽かった。彼が夜通し、手を握っていてくれたせいかもしれない。


私は布団の中で、自分の手のひらを見つめた。彼の指の感触が、まだ残っている気がした。冷たくて、それでいて、なぜか温かい――矛盾したその感覚を、私は何度も反芻した。


朝餉の支度をしながら、私はふと気づいた。


彼は、私を一度も名前で呼んだことがない。


「お前」か、あるいは呼びかけすら省略することがほとんどだった。結婚してから、そういうものだと思っていた。けれど、もしかしたら彼は、私の名前を知らないのではないか。


私は彼の前に茶碗を置きながら、そっと言った。


「……私の名前、知っていますか。」


彼は箸を止め、少しだけ首を傾げた。金色の瞳が、考えるように宙を見つめる。


「……聞いたことはある。」


「では、呼んでみてください。」


彼は、一瞬息を呑んだ。そして、口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じた。その様子が、あまりにも不器用で、私はつい笑みを漏らしてしまった。


「……笑うな。」


「すみません。でも、あなたがそんなに迷うものだとは思いませんでした。」


彼はうつむき、箸の先で茶碗の縁をなぞった。しばらくの沈黙の後、彼が言った。


「……呼んだら、どうなる。」


「どうなる、とは。」


「……呼んだことで、何かが変わる気がする。」


私は、その言葉に胸の奥がきゅっと締まった。彼にとって、名前を呼ぶという行為は、それほど重いものなのだ。彼は、言葉に宿る呪力を知っている。鬼として生きてきたからこそ、名前の重みを、誰よりも理解しているのだ。


私は、優しく言った。


「変わりますよ。私は、あなたに呼ばれた瞬間から、『お前』ではなくなります。『私』になります。あなたの言葉で、形が変わるのです。」


彼は、じっと私を見つめた。長い睫毛の下の金色の瞳が、真剣に私を映している。そして、ゆっくりと口を開いた。


「……綾乃。」


その声は、ひどく掠れていた。まるで、長い間使っていなかった道具を、久しぶりに動かすかのように。けれど、確かに、彼の唇が、私の名前を形作った。


私は、自分の胸が震えるのを感じた。ただの名前だ。たった二文字だ。それなのに、彼の声で紡がれたその音は、私の全身を包み込むように響いた。


「……綾乃。」


もう一度、彼が繰り返した。今度は、さっきより少しだけ滑らかに。


私は、こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえながら、頷いた。


「……はい。ここにいます。」


彼は、ほっとしたように、小さく息を吐いた。そして、口元に、あのわずかな笑みを浮かべた。それは、今までの中で一番、人間らしい笑顔だった。


その日の午後、私は彼の隣に座りながら、ふと思い切って聞いてみた。


「では、あなたの名前を、私は何と呼べばいいのですか。」


彼は、一瞬固まった。


「……私は、鬼だ。」


「鬼でも、名前はありますか。」


彼は沈黙した。長い長い沈黙だった。その間、彼の指先が、無意識に自分の角の根元を撫でている。考えるときの、彼の癖だった。


やがて、彼がぽつりと言った。


「……もう、忘れた。人間だった頃の名前は。」


私は、息を呑んだ。彼は、人間だったことがある。当たり前のことだ。鬼は、元は人間だという。けれど、彼自身の口からその事実を聞いたのは、初めてだった。


「では、」


私は、彼の手を取った。彼は驚いたように目を見開いたが、手を引っ込めようとはしなかった。


「では、私が新しい名前をつけてもいいですか。」


彼は、しばらく私の顔を見つめた。そして、ゆっくりと、一度だけ頷いた。


私は、考えた。彼にふさわしい名前。鬼でありながら、こんなにも優しい彼に。


「……『護』(まもる)。」


彼が、眉をひそめた。


「……護る、か。」


「はい。あなたは、私を護ろうとしてくれました。熱の夜に、手を離さなかった。それに――」


私は、彼の指を、自分の指で優しく包んだ。


「――あなたは、誰かを護るために、自分を傷つけた。その爪で、自分自身を。だから、護という字が、あなたにはふさわしいと思うのです。」


彼は、しばらく何も言わなかった。ただ、金色の瞳をわずかに揺らしながら、自分の手を見つめていた。爪の、あの傷跡を。


やがて、彼が言った。


「……護。それが、私の名前か。」


「はい。もし、気に入らなければ――」


「いや。」


彼は、首を振った。


「……いい名前だ。」


その声は、少しだけ震えていた。けれど、それは悲しみの震えではなかった。嬉しさを、飲み込もうとする震えだった。私は、そのことを確かに知っていた。


その夜、布団の中で、私は小声で彼の新しい名前を呼んだ。


「……護。」


隣の布団から、かすかに衣擦れの音が聞こえた。彼が、こちらを向いたのだ。


「……何だ。」


「いえ。呼んでみただけです。」


「……馬鹿な。」


けれど、その声には、笑みが含まれていた。


私は天井を見上げながら思った。明日からは、彼を「護」と呼ぼう。彼がその名前に慣れるまで、何度でも呼ぼう。そして、彼もまた、私を「綾乃」と呼ぶ。


それは、たったそれだけのことだ。けれど、たったそれだけのことが、私たちを夫婦にする。


――名前とは、心を乗せる器だ。私は、今日、その器を、彼と分かち合った。

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