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第三章 ―― 熱と指先

その日は朝から、空がどんよりと曇っていた。


いつものように彼は囲炉裏に火を起こし、私は水汲みのために裏手の小川へ向かった。けれど、立ち上がった瞬間、視界がふわりと歪んだ。一瞬の眩暈だった。私は手を伸ばして柱に掴まり、息を整えた。


大丈夫。ただの寝不足だ。


そう自分に言い聞かせて、桶を持ち上げる。けれど、その指先は少しだけ、震えていた。


小川から戻り、朝餉の支度を始めた頃には、体の節々に鉛のような重さを感じていた。額に手を当てると、自分の掌の温度すら、ひどく熱く感じられる。


彼は、気づいていたのかもしれない。いつもより私の動作が緩慢なことに。けれど、彼は何も言わなかった。言えないのだろう。まだ、私たちの間に「心配する」という言葉は、あまりに重かった。


昼過ぎ、洗い物をしようと立ち上がった瞬間だった。


世界が、ぐるりと回った。


膝が折れる感覚。桶が畳の上に落ちて、水が派手に跳ねる音。それから、一瞬の浮遊感――


気づいたとき、私は彼の腕の中にいた。


驚くほどに、それは優しい受け止め方だった。彼の腕が、私の背中と膝の裏を支えている。骨張った、大きな手のひらが、まるで壊れ物を扱うかのように、私を支えていた。


「……熱があるな。」


掠れた声が、私の耳のすぐそばで響いた。彼の顔が、近い。金色の瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。その距離に、私は一瞬で覚醒した。


「だ、大丈夫です。少し休めば――」


「黙れ。」


言葉は短く、しかし優しさを含んでいた。彼は私を布団の上にそっと横たえ、自分は水を汲みに行った。戻ってきた彼の手には、水を張った桶と、畳んで濡らした布があった。


彼は私の傍らに膝をつき、濡れ布巾を私の額に乗せた。その手つきが、驚くほどに慎重で、まるで水の滴が一滴でも私の顔に落ちるのを恐れているかのようだった。


「……お前の頬が、赤い。」


彼の指が、私の頬の輪郭にそっと触れた。初めての、彼からの自発的な接触だった。指先は少し冷たい。けれど、それが気持ちよかった。


熱でぼんやりとした意識の中で、私は彼の手をじっと見つめた。あの、自らを傷つけた爪のある手。けれど今、その指先は、私の熱を探るように、優しく頬をなぞっている。


「……あなたの手は、冷たいですね。」


「ああ。鬼だからな。」


「いえ。」


私は、ぼんやりとした視界の中で、小さく首を振った。


「そういう意味じゃない。……あなたの手は、とても優しい。そういう意味で、冷たいんです。」


彼の指が、一瞬止まった。


そして、ゆっくりと、私の手を握った。最初は触れるか触れないかのような、微かな重さだった。けれやがて、確かな力で、私の指を包み込んだ。


「……もう、逃げない。」


彼は、ほとんど息のように言った。


私は、熱で浮かぶ意識の淵で、その言葉を聞いていた。彼が、自分で、自分の手を逃がさないと決めた。その事実が、熱よりももっと深く、私の胸を灼いた。


私は、彼の手を握り返した。力は入らなかったけれど、指先だけは、しっかりと彼の手のひらをなぞった。


「……私も、逃げません。」


その言葉に、彼は何も答えなかった。けれど、握る手の力が、もう少しだけ強くなった。


夜が更けるまで、彼は私の傍らを離れなかった。布巾を何度も水に浸し、私の額を冷やし続ける。時折、指先で私の手首に触れ、脈を確かめる。


私は目を閉じたまま、その全てを感じていた。彼の、動くたびに衣擦れの音。彼の、浅くて静かな呼吸。そして何より、彼の指先が、私の皮膚の上を辿る、そのひとつひとつの感触。


――彼が、私を心配している。


その事実が、熱よりも確かに、私の全身を満たしていた。


深夜、私は一度だけ目を開けた。月明かりが障子を透かして、部屋を青白く照らしている。彼は、私の布団の端に座ったまま、うつむいていた。その顔は、私には見えなかった。


けれど、彼の指が、まだ私の指を握っていた。寝ている私に気づかれないように、そっと、触れているだけのように。


私は目を閉じ、彼の指の感触を、心の奥に刻んだ。


明日、熱が下がったら、私は彼に言おう。あなたの手は、冷たいけれど、それ以上に温かいと。あなたが思っているより、ずっと、温かいと。


その夜、私は初めて、鬼の手に包まれて眠った。


夢の中で、誰かが優しく私の髪を撫でていた。目覚めたとき、その感触は、彼の指のままだった気がする。それとも、これはまだ夢の続きなのだろうか。


けれど、どちらでもよかった。


――なぜなら、夢であれ現実であれ、彼の手が、もう逃げることはないと知っているから。

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