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第二章 ―― 角に触れる朝

それから幾度か、朝が巡った。


彼が毎朝、囲炉裏に火を起こす習慣を覚えたように、私もまた、ある習慣を覚えた。布団から起き上がる前に、まず彼の背中を数えること。呼吸のリズムに合わせて、ゆっくりと。彼が振り返るまでの時間が、昨日よりほんの少しだけ短くなっていることを、密かに確かめる。


それが、私のささやかな楽しみだった。


ある日のこと。朝食の支度をしながら、私は彼の袖口に目を留めた。黒い着物の袖口が、ほつれて糸が数本、垂れ下がっている。どうやら、山道で木の枝に引っかけたらしい。彼自身は気にしていない様子だが、私は無視できなかった。


「……少し、待っていてください。」


私は針と糸を取り出し、彼の前に座った。彼は困惑したように金色の瞳を瞬かせたが、私が袖口に手を伸ばすと、驚くほどおとなしく腕を差し出した。


袖を裏返し、針を通す。彼の腕の太さに合わせて、丁寧に、一針ずつ。


指先が、彼の手首に触れるたびに、彼の腕が微かに強張る。けれど、逃げようとはしなかった。その変化に、私は心の中でそっと微笑んだ。


「……上手いな。」


ぽつりと、彼が言った。


私は顔を上げた。彼は相変わらずうつむいているが、口元だけがわずかに緩んでいる。鬼が、笑う。その事実が、なぜかひどく愛おしかった。


「母が、裁縫は女の命だと言っていました。」


「……母、か。」


彼はその言葉を繰り返し、少しだけ遠くを見た。何かを考えるときの癖なのだろう、彼の指先が無意識に、自分の角の根元を撫でていた。


その仕草を見て、私はふと考えた。彼の角は、彼の一番「鬼」らしい部分だ。けれど同時に、彼自身が無意識に触れる場所でもある。そこには、きっと彼の過去が詰まっている。


私は、針を置いた。


「……触っても、よろしいですか。」


彼は顔を上げ、私を見た。その瞳に、一瞬の警戒と、それ以上に大きな戸惑いが浮かぶ。


「角に、か。」


「はい。」


彼はしばらく沈黙した。そして、ゆっくりと、ほとんど聞こえないほどの声で言った。


「……好きにしろ。」


私は、慎重に手を伸ばした。彼の頭の両側から生える、黒い角。表面は滑らかで、まるで古い木の幹のように、微かに温もりがあった。


指先で、角の根元をなぞる。彼の肩が、びくりと震えた。


「……痛いか。」


と、思わず尋ねると、彼は首を振った。


「……いや。くすぐったい。」


その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。鬼が、くすぐったいと言う。そのあまりに人間的な感覚が、滑稽で、そして愛おしくて。


私はもう一度、ゆっくりと角を撫でた。今度は、彼は震えなかった。代わりに、目を閉じた。鬼の、長い睫毛が、朝日に照らされて影を作る。


しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。ただ、私の指先と、彼の角の温もりだけが、そこにあった。


やがて彼が口を開いた。


「……昔、誰かにも、こうしてもらったことがある。」


「誰ですか。」


「……覚えていない。」


それは嘘ではなかった。彼の声には、本当に思い出せないという苦しみが混じっていた。鬼として生きてきた歳月は、人間の記憶を削り取っていくのだろう。


私は、指を止めずに言った。


「では、これから覚えていけばいいのです。」


彼は、目を開けた。金色の瞳が、まっすぐに私を映す。


「……お前の指の感触を、か。」


「はい。この指が、あなたの角に触れたことを。あなたが、くすぐったいと言ったことを。」


彼は、何度か瞬きをした。そして、口元に、またあのわずかな笑みを浮かべた。


「……馬鹿なことを言うな。」


けれど、その言葉には、かつての拒絶の響きは一切なかった。


その夜、私は布団の中で、自分の指先を見つめた。今日、彼の角に触れた指だ。あの感触が、まだ指の腹に残っている。


すると、隣の布団から、彼の声が聞こえた。


「……お前は、」


「はい。」


「……なぜ、私を怖がらない。」


それは、の夜と同じ問いだった。けれど、今度は震えていなかった。純粋な、問いだった。


私は、暗がりの中で微笑んだ。


「あなたが、私を怖がっているからです。自分が誰かを傷つけることを怖がっているからです。――怖がれる者ほど、人を傷つけない。私は、それを知っています。」


返事はなかった。しかし、その代わりに、彼の布団の方向から、小さな寝息が聞こえてきた。彼が、私の言葉を聞きながら、眠りに落ちたのだ。


私は天井を見上げた。まだ見ぬ彼の過去。彼の傷。彼が忘れてしまった誰かの記憶。


けれど、大丈夫だ。明日もまた、私は彼の角に触れる。そして、新しい記憶を、ひとつずつ積み重ねていく。


――この指が覚えているのは、今日の温もりだけだから。

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