第一章 ―― 触れても、いいですか。
朝の光が、薄い竹簾の隙間から畳の上に細長い影を落としていた。
目を覚ますと、もう彼は起きていた。囲炉裏の前に座り、火の始末をしている。しかし、その手つきはどこか不器用で、薪をくべるたびに炭がはねて、彼の黒い着物に小さな灰の跡をつけていた。
鬼である彼に、人間の暮らしはまだ馴染んでいないのだろう。それでも、毎朝こうして火を起こそうとする。その背中を見るたびに、私の胸の奥がぎゅっと締まる。
私は布団から起き上がり、棚から木の櫛を取り出した。寝癖のついた髪をとかしながら、ふと彼の後ろ姿に声をかける。
「おはようございます。」
彼はびくりと肩を震わせ、振り返った。金色の瞳が、朝日に一瞬だけ煌く。けれど、すぐにうつむいて、小さく頷いた。返事はない。いつものことだった。
私は洗い物をしに、裏手の小川へ向かおうとした。その時、手にしていた櫛を滑らせて、ぽとりと畳の上に落とした。
同時に、彼が身を乗り出した。
「……っ」
鬼の反射神経なのだろう。彼の長い腕が伸びて、落ちる寸前の櫛を掴んだ。指先が、私の手の甲にかすかに触れる。
瞬間、彼は弾かれたように手を引っ込めた。まるで、熱いものに触れたかのように。
その反応を見て、私はなぜか確信した。――彼は、私に触れることを、怖がっているのだ。自分自身を傷つけたあの爪で、私を傷つけるのではないかと。
彼は俯いたまま、掴んだ櫛を差し出そうとしない。指が、わずかに震えていた。
私は、ゆっくりと自分の手を差し出した。彼の拳を、両手で包み込むようにして。
「……どうか、」
声が震えた。けれど、はっきりと。
「どうか、逃げないでください。」
彼の指が、私の掌の中で、氷のように冷たかった。しかしその冷たさの奥に、微かな鼓動が伝わってくる。人のものではない、もっとゆっくりとした、強い鼓動。
彼は息を呑んだ。そして、長い沈黙の後、震える声で言った。
「……私の手は、お前を焼くかもしれない。」
私は首を振った。
「焼かれたっていい。その手が、あなたの手だというのなら。」
その言葉に、彼の金色の瞳が、初めてまっすぐに私を見た。怖がっているのは、私ではなく、彼自身なのだと、その瞳が雄弁に語っていた。
その夜のことだ。
私は布団に横たわり、目を閉じていた。すると、かすかな衣擦れの音と共に、彼の気配が近づいてきた。
指先が、そっと私の髪の先を撫でた。触れるか触れないかの、紙一重の優しさで。
そして、私の耳にだけ届くような、掠れた声で、彼は呟いた。
「……柔らかいな。」
私は、目を閉じたまま、唇の端をわずかに緩めた。
彼が自分の手を怖がっているなら、私は何度でも、その手を取ろう。彼が自分を鬼だと言うなら、私は何度でも、その頬に触れて、こう言おう。
――あなたは、鬼なんかじゃない。
この物語は、まだ始まったばかりだ。彼の指が、明日はもう少しだけ、長く私の髪に留まりますように。




