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第十八章 ―― 小さな鼓動

春が深まり、山はすっかり緑に包まれていた。


私のお腹も、少しずつ膨らみ始めている。まだ目立つほどではないけれど、自分で触れると、確かにそこに命が宿っているのが分かる。


彼は、相変わらず無口だった。けれど、私が何かをしようとすると、すぐに手を貸す。水を汲もうとすれば桶を奪い、薪を運ぼうとすれば先に動く。その不器用な気遣いに、私はいつも胸が温かくなった。


ある日、私は縁側で日向ぼっこをしていた。春の日差しは優しく、風も穏やかだ。私は、自分の腹に手を当て、小さな命の気配を感じていた。


「……綾乃。」


彼の声がして、顔を上げると、彼が立っている。何か言いたそうに、口を開けたり閉じたりしている。


「……護、どうしました。」


「……その、」


彼は、うつむいたまま、指先を弄っている。


「……お腹の子は、元気か。」


その質問は、あまりに初歩的で、私は思わず笑みがこぼれた。


「……はい、元気ですよ。」


「……そうか。」


彼は、それだけ言って、また何か考え込むように遠くを見つめた。


私は、彼の手を引いて、自分の隣に座らせた。


「……護、触ってみますか。」


「……何を。」


「お腹です。あなたの子が、ここにいます。」


彼は、一瞬息を呑んだ。そして、おずおずと手を伸ばした。その指先は、震えている。


「……いいのか。」


「いいのです。あなたは、父親ですから。」


彼は、ゆっくりと、私の腹に手を置いた。その手は、少し冷たい。けれど、その冷たさが、かえって心地よかった。


彼は、しばらくそのまま動かなかった。そして、何かを感じ取ったように、目を見開いた。


「……動いた。」


その声は、驚きに満ちていた。


「……今、確かに、動いた。」


「……本当ですか。」


私も、自分の腹に手を当てた。けれど、私にはまだ、はっきりとは感じ取れない。


「……護、どんな感じでしたか。」


「……小さな、魚が泳いだような。それでいて、確かな命の鼓動だ。」


彼は、その言葉を探すように言った。そして、また私の腹に手を当てた。


「……もう一度、感じたい。」


私は、彼のその言葉に、胸が締め付けられた。彼は、この子を、確かに自分のものとして感じている。鬼だからという理由で、距離を置こうとはしていない。


「……護、あなたは、この子をどう思いますか。」


彼は、少し考えた。そして、静かな声で言った。


「……正直、怖い。」


「……怖い?」


「……ああ。俺は、鬼だ。この子が、もし鬼として生まれてきたら、俺と同じ苦しみを味わうかもしれない。人が、この子を怖がるかもしれない。そのことを思うと――」


彼の声が、そこで詰まった。私は、彼の手を握った。


「……護、あなたが鬼であることを、私は恐れたことがありません。この子も、同じです。この子が鬼として生まれようと、人として生まれようと、私はこの子を愛します。あなたが、この子を愛するのと同じように。」


「……綾乃、」


「それに、もしこの子が鬼として生まれても、この子にはあなたがいます。鬼として生きる苦しみを、誰よりも知っている父親が。この子は、一人じゃない。」


彼は、しばらく何も言わなかった。けれど、その手が、私の腹を優しく撫でている。


「……綾乃。」


「……はい。」


「……俺は、この子を護る。お前と、この子を。何があっても。」


その言葉は、短かった。けれど、その重みは、何よりも確かだった。


その夜、布団の中で、私は彼に尋ねた。


「……護。もし、この子に名前を付けるとしたら、何がいいですか。」


彼は、少し考えた。そして、ぽつりと言った。


「……光。」


「……光?」


「……ああ。俺は、お前に出会うまで、闇の中にいた。けれど、お前は、俺に光をもたらした。この子も、お前のように、誰かの光になるかもしれない。」


私は、その言葉に涙がこぼれ落ちそうになった。彼は、自分の人生を「闇」と言った。けれど、その闇を照らしたのが私だと言ってくれた。


「……光、いい名前ですね。もし、男の子なら『光』。女の子なら『光』でもいいし、『ひかり』でも。」


「……お前に任せる。」


「一緒に、考えましょう。この子が生まれるまでに、素敵な名前を。」


彼は、うなずいた。その顔には、もう不安はなかった。代わりに、確かな決意と、そして――喜びが浮かんでいた。


私は、彼の手を握りながら、目を閉じた。


――小さな鼓動が、私のお腹の中で、確かに生きている。彼の手が、その鼓動を感じ取った。その瞬間、私たちは、家族になった。


春の夜は、優しく私たちを包んでいる。新しい命が、新しい季節を連れてくる。その命を、私たちは共に育んでいく。


それが、私たちのこれからの物語だ。

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