第十七章 ―― 春の息吹
雪が完全に消えた日、山は一気に色づき始めた。
木々の芽が膨らみ、地面からは小さな草が顔を出す。遠くの山肌には、うっすらと緑の霞がかかっている。空気も、冬の冷たさから、春の柔らかさに変わっていた。
私は、窓を開けて、深く息を吸い込んだ。土の匂い。芽吹く草の匂い。それから、かすかに花の香り。
「……春ですね。」
背後から、彼の足音が聞こえた。振り返ると、彼も窓の外を見ている。
「……ああ。春だ。」
その声には、確かな喜びが込められていた。
「……護。約束の日です。」
彼は、少し驚いたように私を見た。そして、すぐに思い出したように頷いた。
「……白梅草の花か。」
「はい。あの方に、伝えに行きましょう。」
彼は、しばらく何も言わなかった。けれど、やがて小さく頷いた。
「……行こう。」
私たちは、山道を歩いた。道すがら、あちこちに春の兆しが見える。小さな花が咲き、鳥の声が聞こえる。風も、冬の厳しさはなく、優しく頬を撫でた。
白梅草の場所に着くと、そこには一面の白い花が咲いていた。雪のように白く、けれど春の日差しに透けて、かすかに光っている。彼が一番好きだと言った、あの花だ。
私は、彼の手を握った。
「……護。」
「……ん。」
「ここで、伝えましょう。あの方に。」
彼は、うつむいたまま、小さく頷いた。私は、空を見上げて、大きく息を吸い込んだ。そして、心の中で、彼の過去の恋人に語りかけるように、声を出した。
「――護は、今、幸せです。あなたの願いは、叶いました。」
その言葉は、春の風に乗って、山の中へと消えていった。彼は、うつむいたままだったが、その手が、私の手を強く握り返した。
「……ありがとう、綾乃。」
彼の声は、かすかに震えていた。けれど、それは悲しみの震えではなかった。――安堵の、そして感謝の震えだった。
「……護、もう、大丈夫です。あの方も、きっと、喜んでいます。」
「……ああ。」
彼は、顔を上げた。その瞳に、涙が浮かんでいる。けれど、その瞳は、かつての曇りはなく、澄んでいた。
「……護。」
私は、彼の頬に手を伸ばし、その涙を拭った。
「……あなたは、もう、一人じゃない。」
「……ああ。知っている。」
彼は、私の手を握りながら、白梅草の花を見つめた。風が吹き、花が揺れる。まるで、誰かが微笑んでいるかのように。
帰り道、私たちは手を繋いで歩いた。彼の手は、温かい。もう、私の手に触れることを怖がったりはしない。彼は、完全に、私を受け入れている。
家に戻り、囲炉裏の火を囲みながら、私はふと自分の体に違和感を覚えた。何かが、変わった。朝、目が覚めたときから、何となく気分が優れない。食べ物の味が、いつもと違う気がする。
「……綾乃、どうした。」
彼が、私の顔を覗き込んだ。私は、首を振ろうとして、やめた。
「……護。私、もしかしたら――」
「……何だ。」
「――あなたの子を、授かったかもしれません。」
彼は、一瞬息を呑んだ。そして、金色の瞳を大きく見開いて、私を見つめた。
「……本当か。」
「……まだ、確かではありません。けれど、最近、体調が変で。それに、」
私は、自分の腹に手を当てた。
「……ここに、何かがいる気がします。」
彼は、しばらく何も言えなかった。そして、ゆっくりと、私の手を取った。その手は、少し震えている。
「……綾乃。」
「……はい。」
「……俺は、」
彼は、言葉を探すように、何度か口を開けたり閉じたりした。そして、ようやく言葉を見つけたように言った。
「……俺は、父親になれるのか。」
その言葉は、驚くほどに無防備だった。彼は、鬼である自分が、父親になれるのか。その不安が、その一言に込められていた。
私は、彼の手を握り返した。
「……なれます。あなたは、立派な父親になります。あなたが、私を護ってくれたように、この子も護ってください。」
「……俺は、」
「あなたは、鬼です。けれど、それ以上に、優しい人です。この子は、その優しさを知って育ちます。」
彼は、うつむいたまま、しばらく何も言わなかった。けれど、その手が、私の手を強く握り返している。
やがて、彼が顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。けれど、それは、喜びの涙だった。
「……ありがとう、綾乃。」
「……こちらこそ、ありがとう、護。」
私たちは、手を握り合ったまま、春の夜を過ごした。外では、蛙の声が聞こえ始めている。
――春は、生命の季節だ。雪が溶け、花が咲き、そして、新しい命が芽吹く。私たちは、この春に、新しい命を授かった。鬼と人の間の子が、この世界に生まれようとしている。
私は、自分の腹に手を当てて、小さな命の気配を感じながら思った。
この子は、どんな季節を見るのだろう。どんな花を好きになるのだろう。そして、どんな人に育つのだろう。
けれど、大丈夫だ。この子には、優しい父親がいる。そして、その父親を愛する母親がいる。それだけで、この子はきっと、幸せに育つ。
私は、彼の手を握りながら、目を閉じた。
――春は、まだ始まったばかりだ。新しい命と共に、私たちの新しい季節が、今、始まろうとしている。




