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第十六章 ―― 初めての笑い声

彼の熱が完全に下がったのは、それから三日後のことだった。


朝、目を覚ますと、彼は既に起きていた。囲炉裏の前に座り、火の始末をしている。その背中は、もう以前のようにしっかりとしていた。私は、ほっとして、布団から起き上がった。


「……護。もう大丈夫ですか。」


「……ああ。お前のおかげだ。」


彼は、振り返って私を見た。その顔には、いつもの穏やかな表情があった。けれど、それ以上に、どこかすっきりとした、晴れやかな様子だった。


「……お前、ずいぶん痩せたな。」


「……護こそ、痩せましたよ。」


「……お互い様だな。」


私たちは、顔を見合わせて、小さく笑った。それが、日常の何気ない会話だということが、嬉しかった。


その日、窓の外を見ると、雪が止んでいた。それどころか、屋根の雪が溶け始めている。軒先からは、水滴が落ちる音が聞こえる。


「……雪が、溶けていますね。」


「……ああ。もうすぐ、春だ。」


彼は、窓の外を見ながら言った。その横顔には、ほのかな期待が浮かんでいるように見えた。


「……護。外に出ませんか。」


「……雪が溶けている。道が、滑るかもしれない。」


「大丈夫です。護が手を引いてくれれば。」


彼は、少し考えた。そして、小さく頷いた。


「……いいだろう。」


私たちは、雪が溶けかけている山道を歩いた。足元は確かに滑りやすく、私は何度かよろめいた。けれど、そのたびに彼の手が私の腕を支えた。


「……護、あなたの手、温かいですね。」


「……鬼のくせに、か。」


「いいえ。鬼だから、じゃない。護だから、温かいんです。」


彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、私の手をぎゅっと握った。


しばらく歩くと、私たちはあの小さな滝に着いた。滝の水は、雪解け水でいつもより多く、勢いよく流れ落ちている。水しぶきが、かすかに虹を作っていた。


「……護、見てください。虹です。」


「……ああ。」


彼は、私の隣に立ち、滝を見つめた。その顔に、柔らかな表情が浮かんでいる。


私は、ふと思い立って、足元の小さな氷の塊を拾った。そして、それを彼に向かって投げた。氷は、彼の肩に当たり、ぱりんと砕けた。


彼は、驚いて私を見た。


「……何をする。」


「雪合戦です。子供の頃、よくやりました。」


「……馬鹿な。」


そう言いながらも、彼は足元の雪を手に取り、小さく固めた。そして、私に向かって投げた。雪玉は、私の肩に当たり、粉々になった。


「……やりますね、護。」


「……お前が始めたことだ。」


私たちは、しばらく雪玉を投げ合った。彼は、鬼の力を持っているのに、力を加減して、私が痛くないように投げてくれている。その優しさが、また愛おしかった。


やがて、私は疲れて、雪の上に座り込んだ。


「……降参です。」


「……弱いな。」


彼は、私のそばに来て、しゃがみ込んだ。その顔が、近い。


私は、彼の顔に付いた雪の粉を、手で払った。


「……護、あなた、雪で真っ白ですよ。」


「……お前もだ。」


彼は、私の髪に付いた雪を払った。その指が、髪に触れる。優しく、慎重に。


「……護。」


「……ん。」


「……あなた、笑っていますね。」


彼は、驚いて自分の口元に手をやった。確かに、彼の口元は緩んでいる。それだけではない。彼の目も、笑っている。そして――


「……護、あなた、声を出して笑っていますよ。」


私は、その事実に気づいて、声を上げた。彼は、一瞬きょとんとした顔をした。そして、自分が声を出して笑っていたことに、ようやく気づいた。


「……本当だ。」


彼は、少し驚いたように言った。そして、もう一度、声を出して笑った。今度は、自分から。


「……こんなに、笑ったのは、久しぶりだ。」


その声は、少し震えていた。けれど、確かに喜びの震えだった。


「……護。私は、あなたの笑い声が、初めて聞けました。」


「……あまり、笑わないからな。」


「いいえ。これからは、たくさん笑ってください。あなたの笑い声は、とても優しいです。」


彼は、うつむいた。けれど、その口元は、まだ笑っていた。


その夜、家に戻り、私たちは囲炉裏を囲んで座った。外では、雪が溶ける音が聞こえる。春の気配が、確かに近づいている。


「……護。」


「ん。」


「春になったら、あの方の花を見に行きましょう。」


「……白梅草か。」


「はい。そして、空に向かって言うのです。『護は、今、幸せです』って。」


彼は、しばらく何も言わなかった。そして、静かに言った。


「……綾乃。」


「はい。」


「……俺は、もう、幸せだ。」


私は、その言葉に、胸が熱くなった。


「……まだ、春になっていませんよ。」


「……春にならなくても、俺は、お前がいるだけで、幸せだ。」


彼は、私の手を取った。藍色の紐が、彼の手首に光っている。


「……春が来たら、もっと幸せになる。」


「……そうですね。花が咲いて、鳥が帰ってきて、山が緑になる。」


「……そして、お前が、隣にいる。」


「……私は、いつでも、あなたの隣にいます。」


彼は、私の手を握りながら、窓の外を見た。雪が、静かに溶けている。その音が、まるで、新しい季節の足音のように聞こえた。


――冬が終わる。長く、厳しい冬が。けれど、私たちはそれを乗り越えた。そして、春が来る。白梅草が咲き、山が色づく。そのすべてを、私たちは一緒に見るのだ。


私は、彼の手を握りながら、目を閉じた。


明日も、彼の笑い声が聞けますように。それが、私の一番の願いだった。

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