第十四章 ―― 雪の下の記憶
雪は、一週間も止まなかった。
最初のうちは美しいと思っていた雪も、連日降り続けば、次第に脅威へと変わる。家の周りは雪で埋まり、薪の確保もままならない。食料も、残りわずかになっていた。
私は、棚の中を確認しながら、唇を噛んだ。米はもう底をつきかけている。山菜の保存も、もうほとんどない。このままでは、数日もしないうちに、何も食べるものがなくなってしまう。
「……護。」
私は、彼の方を向いた。彼は、窓の外を見つめている。その横顔は、いつもより緊張していた。
「……食料が、足りません。」
「……ああ。」
彼は、短く答え、それ以上何も言わなかった。けれど、その目が、何かを決意しているように見えた。
翌朝、目を覚ますと、彼の姿がなかった。布団は冷え切っていて、彼がいつ出ていったのかも分からない。
私は、慌てて起き上がり、家の中を探した。けれど、彼はいない。彼の履物も、あの大きな背負い籠も、なくなっている。
――まさか。
私は、窓を開けた。外は吹雪いていた。視界は白く濁り、数歩先も見えない。そんな中に、彼は行ってしまったのだ。
「……護!」
私は、叫んだ。けれど、声は風に消された。返事は、何もない。
私は、縁側に座り込み、彼の帰りを待つことにした。何もできない自分が、もどかしかった。彼が何をしに行ったのか、分かっていた。食料を探しに、あの吹雪の中へ行ったのだ。鬼だから、人間よりは寒さに強いかもしれない。けれど、それでも危険なことに変わりはない。
三時間が経った。四時間が経った。五時間が経っても、彼は戻らなかった。
私は、囲炉裏の火を絶やさないようにしながら、何度も窓の外を覗いた。雪はますます強くなっている。
六時間目。ようやく、彼が戻ってきた。
彼は、全身に雪を被っていた。髪も、眉も、睫毛も、すべてが白くなっている。背負い籠には、何かが入っている。彼は、玄関で雪を払い、よろめきながら中に入った。
「……護!」
私は、駆け寄り、彼の体を支えた。彼の手は、氷のように冷たい。顔色も、青ざめている。
「……大丈夫か。」
彼が、私の方を向いた。その声は、掠れていたけれど、確かに私を気遣っていた。
「大丈夫なのはあなたの方ですか!こんな吹雪の中、どこへ行っていたのです!」
私は、怒りと安堵が入り混じった声で言った。彼は、少し驚いたように目を見開いたが、やがて小さく笑った。
「……腹が減るだろうと思って。」
彼が背負い籠を下ろすと、中には兎が二羽と、凍った山菜が入っていた。私は、その光景に言葉を失った。彼は、この吹雪の中、兎を捕まえ、山菜を掘り出してきたのだ。
「……ばかな人。」
私は、涙がこぼれ落ちるのを抑えきれなかった。
「あなたが、もし何かあったら、私はどうすればいいのです。」
「……鬼は、そう簡単には死なない。」
「死ななくても、傷つくことはあります。あなたが傷つくことが、私にとっては何よりも怖いのです。」
彼は、私の言葉に、少し目を見開いた。そして、ゆっくりと、私の頭に手を置いた。
「……すまない。心配をかけた。」
その手は、まだ冷たかった。けれど、その仕草が、あまりにも優しくて、私はさらに涙が止まらなくなった。
夜、私は彼が採ってきた兎で汁物を作った。彼は、囲炉裏のそばで体を温めながら、それを静かに食べた。何も言わなかった。けれど、その口元が、わずかに緩んでいる。
私は、食器を片付けながら、ふと棚の上の引き出しに目をやった。そこは、普段あまり開けない場所だ。埃が積もっていて、彼が長い間、触っていないことが分かる。
何気なく、私はその引き出しを開けた。
中には、小さな木箱があった。古びた、漆塗りの箱だ。蓋には、かすかに花の模様が彫られている。私は、興味に導かれて、そっとその蓋を開けた。
中には、一輪の押し花と、一枚の古びた紙が入っていた。押し花は、白い花だった。――白梅草だ。彼が一番好きだと言っていた、あの花。
私は、震える指で、その紙を広げた。そこには、女性の筆跡で、短い言葉が書かれていた。
『護様。あなたに出会えたことが、私の人生で一番の幸せでした。どうか、幸せに。――花より』
その文字は、とても優しかった。けれど、最後の部分は、インクがにじんで読めない。涙の跡だろうか。それとも、水の跡だろうか。
私は、その紙をそっと箱に戻し、蓋を閉めた。
その夜、布団の中で、私は彼に尋ねた。
「……護。あなたの棚の引き出しに、木箱がありました。あれは、あの方からのものですか。」
彼は、一瞬息を呑んだ。そして、静かに頷いた。
「……ああ。彼女が、最後に残してくれたものだ。」
「……見ても、よかったのですか。」
「……もう、お前は見たのだろう。」
彼は、少しだけ苦笑した。私は、謝ろうとして、やめた。謝ることは、彼の過去を否定することのように思えたからだ。
「……護。私は、あなたの過去を、そのまま受け入れます。あの方が、あなたに残してくれた言葉は、今の私にも届いています。」
「……綾乃。」
「あの方は、あなたが幸せになることを願っていました。私は、その願いを叶えたい。あなたと一緒に、幸せになりたい。」
彼は、しばらく私の顔を見つめていた。そして、そっと、私の手を握った。
「……お前は、本当に、」
「本当に、何ですか。」
「……本当に、馬鹿な女だ。」
その言葉は、けれど、愛しさに満ちていた。
私は、彼の手を握り返しながら言った。
「……護。春になったら、また白梅草の花を見に行きましょう。そして、あの方にも、私たちが幸せだということを、伝えに行きましょう。」
「……伝えに行く、か。」
「はい。あの花の咲く場所で、私はあなたの手を握って、空に向かって言います。『護は、今、幸せです。あなたの願いは、叶いました』と。」
彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、微かに震えているのが分かった。安堵の震えだ。私は、その震えを感じながら、目を閉じた。
――冬は、まだ続く。雪は、これからも何度も降るだろう。けれど、私たちは、その雪の中を歩いていく。彼の過去を背負いながら、そして、彼女の願いを胸に抱きながら。
明日も、また雪が降る。けれど、私は彼と一緒にいる。それだけで、どんな吹雪も、怖くない。




