第十三章 ―― 雪の夜
目を覚ますと、世界が静かだった。
いつもの朝なら、山鳥の声や風の音が聞こえる。けれど、その日は違った。何も聞こえない。まるで、すべての音が吸い取られたかのような、不思議な静けさだった。
私は、布団から起き上がり、窓を開けた。
――白。
一面の白。山も、木々も、地面も、すべてが真っ白な雪に覆われていた。昨夜までそこにあったはずの道も、庭も、何もかもが雪の下に消えている。
「……雪だ。」
私は、思わず息を漏らした。息が白く舞い上がる。一気に冷たくなった空気が、頬を刺す。
背後から、彼の足音が聞こえた。振り返ると、彼も窓の外を見ている。
「……初雪だな。」
「護は、雪が好きですか。」
彼は、少し考えた。そして、ぽつりと言った。
「……嫌いではない。けれど、俺の足跡が、すぐに分かるのが困る。」
「足跡?」
「……鬼の足跡は、人間のものより深くつく。誰かに見つかると、面倒だ。」
彼の言葉に、私は改めて彼が鬼であることを意識した。彼は、こうして雪の中で誰にも見つからないように、長い間生きてきたのだ。
私は、彼の手を取った。
「……なら、私も一緒に歩きます。あなたの足跡の隣に、私の足跡をつけます。そうすれば、あなただけの足跡には見えないでしょう。」
彼は、驚いたように私を見た。そして、小さく笑った。
「……馬鹿なことを言うな。」
けれど、その口元は、わずかに緩んでいた。
その日、私たちは雪の中を歩いた。彼の足跡は確かに深く、私の足跡は浅い。けれど、二つの足跡が並んで、雪の上に続いている。それは、まるで私たちのこれからの道のりのようだった。
午後になると、雪はさらに激しくなった。風が吹き荒れ、窓を叩く。家の中にいても、寒さが身に染みる。私は、囲炉裏の火を大きくしながら、彼の方を向いた。
「……護。今夜は、とても冷え込むかもしれません。」
「……ああ。薪を多めに用意しておく。」
彼は、立ち上がり、裏手の薪置き場へ向かった。しばらくして戻ってきた彼の手には、大きな薪が何本か抱えられている。けれど、その髪には雪が積もり、肩も濡れていた。
「……護、あなた、雪まみれですよ。」
私は、立ち上がり、手ぬぐいで彼の髪を拭いた。彼は、一瞬驚いたように固まったが、やがて素直に頭を下げた。
「……すまない。」
「いいえ。あなたが薪を運んでくれたから、私は暖かく過ごせます。お礼を言うのは、私の方です。」
私は、彼の髪を拭きながら、ふと彼の角に手が触れた。角は、冷たくなっていた。雪の冷たさが、彼の角にまで染み込んでいる。
「……角、冷たいですね。」
「……外にいたからな。」
「暖めてあげます。」
私は、両手で彼の角を包み込んだ。彼は、びくりと肩を震わせた。けれど、逃げようとはしなかった。ただ、目を閉じて、私の手の温もりを受け入れている。
「……綾乃。」
「はい。」
「……お前の手は、温かいな。」
「護の角も、少しずつ温かくなってきましたよ。」
しばらく、そのままの姿勢でいた。囲炉裏の火が、ぱちぱちとはぜる音だけが、部屋に響いている。
やがて、彼が口を開いた。
「……もう、いい。」
「もう少し、このままで。」
「……馬鹿な。」
けれど、彼は逃げようとしなかった。私は、彼の角が温かくなるまで、両手で包み込んでいた。
夜、雪はさらに強くなった。風が家を揺らし、窓の外は真っ暗だ。私は、布団の中で震えながら、彼の方を向いた。
「……護。」
「……ん。」
「今夜は、一緒に寝てもいいですか。」
彼は、少し間を置いた。そして、静かに言った。
「……来い。」
私は、彼の布団に移動した。彼は、私が入るのを待って、布団の端を私の肩にかけた。
「……寒いだろう。」
「はい。けれど、護が隣にいれば、大丈夫です。」
彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、私の手を握った。藍色の紐が、彼の手首に触れる。
しばらくして、彼が言った。
「……綾乃。」
「はい。」
「……俺は、お前を護る。この冬も、これからのすべての冬も。」
その言葉は、短かった。けれど、その重みは、何よりも確かだった。
私は、彼の手を握り返した。
「……私も、護を護ります。あなたが寒くないように。あなたが寂しくないように。あなたが、一人だと思わないように。」
彼は、何も言わなかった。けれど、その手が、私の手を強く握り返した。
その夜、私たちは雪の音を聞きながら、手を繋いで眠った。外は吹雪いている。けれど、布団の中は、温かかった。
――冬は、これからが本番だ。雪は何度も降り、寒さは厳しくなる。けれど、大丈夫だ。彼がいる。彼の手が、私の手を握っている。それだけで、どんな冬も乗り越えられる。
私は、彼の寝息を聞きながら、目を閉じた。
明日も、また雪が降るだろう。けれど、その雪の中を、私たちは一緒に歩く。足跡を並べて、雪の上に新しい道を作る。
――それが、私たちの冬の始まりだ。




