瀬戸の御朱印物語
――二〇六八年三月末。鶴島。
僕はもうすぐ死ぬ。今年で六十八歳……よくここまで生きられたものだと感心する。医者には六十まで生きられたら良いと言われていた。
病名は癌……母親と同じ癌に侵され、残りわずかの時間を実家で過ごしていた。
「道子……」
「あなた、大丈夫? もうすぐ千里達が来るけんね」
「あぁ……。道子、そこの帽子を取ってくれまいか?」
「帽子? えぇ……」
そう言うと道子は、帽子掛けから、黒の帽子を僕の寝ている枕元に置いてくれる。
「ありがとう……」
「あなた、そう言えばもうすぐ春敏と千舟の十六歳の誕生日なんよ。千里が双子を産んだ時はどうなる事かと思ったけど、大きくなってくれたわ。あなたのおかげよ」
「そうか……孫達ももう十六か……」
あの日から今年で五十年……旅先で巡った瀬戸内海と御朱印帳を最近良く思い出す。
「あら、時間だわ。フェリー乗り場まで千里を迎えに行って来るけんね。何かあったら電話してね」
「あぁ……」
道子が千里達を迎えに出かけると、僕は机の引き出しに手を伸ばし小さな箱と本を取り出す。
死ぬまで開けないと誓った小箱。理由は覚えていない……その為、中身ももちろん覚えてはいない。けれど、なぜかこれは開けてはいけないと道子と決めた宝物……。
「道子、すまん……」
この小箱に何が入っていたのか? このところずっと気になっていた。
体を起こし小箱をそっと開ける。小箱の中には、小さな瓶に透明な液体が入っており、僕は迷わず一気にそれを飲み干した。
「ふぅ……」
この液体はいったい何だったのか。しかし、もう死を目前に恐怖は無かった。ただただ……楽に逝けるのなら、この体を蝕む痛みから解放されるのなら、それでも良いかという思いがあったのかもしれない。
そしてベッドで横になり、目を閉じる。僕は昔の事を思い出しながら眠りについた。
………
……
…
――ガタンゴトンガタンゴトン。
気が付くと、揺れる電車の中で僕は座っている。何とも奇妙な夢だ。なぜなら、目の前の席に若い頃の自分が座っている。
窓から見える景色は、空を落とし込んだ様な青い青い瀬戸内海だった。瀬戸内海が窓の外に流れていくと同時に、当時の光景が思い出される。
確か僕は白石島に向かっていて……そうだ。教えてやらないと……。
「――君は白石島へ行くのか?」
「へ? あ、はい」
「――覚えておくと良い。伏見の主に会う時には、身代わり狐を持っておくと良いぞ」
「伏見? 身代わり? どういう事?」
「良いか? 忘れるでないぞ――」
これでいい……これで……。
『チリーン』
その時、どこからともなく懐かしい鈴の音が聞こえた。
「この鈴の音ってまさか……!!」
僕は鈴の音の聞こえた方へと、座席の背もたれを頼りに、揺れる電車の中を移動する。
『チリーン』
その音は時々聞こえ、隣の車両から鳴っている様だった。
そしてBの二十九番席……その席に彼女は座っていた。窓の外を見ている彼女はあの日と変わらない後ろ姿で、僕は彼女に話しかける。
「もしかして、千鶴ねぇ……?」
「ん? 遅いぞ春臣。忘れ物や」
僕がいつの日か無くしてしまった狐のキーホルダーを持ち、鈴を鳴らす彼女は当時のまま変わらない笑顔の千鶴だった。
「千鶴ねぇ……会いたかった……うぅ……」
「なんや春臣! 気持ちの悪い! 泣くな泣くな! しかしまぁ……老けたな。あははっ!」
「や、やかましいっ! 何十年経ったと思うとんねん!」
「春臣こそ、何十年待たせんねん! 今度こそ、瀬戸内海ウルトラ御朱印巡り最後まで付き合うたる! 今度はうちの……瀬戸千鶴の御朱印物語の始まりや!」
「御朱印巡り……そやな。今年は五十年目やもんな……。でももうこの身体じゃ――」
そう言おうとすると、千鶴が待ってましたとばかりに僕を指差す。
「諦めんのはやってからにしいや!!」
「……!? ははは……! そやな。うん、そやな。また頼むわ、千鶴ねぇ!」
「おう! オーボエに乗ったつもりで――」
「それ、大船な。何回言ったら覚えんねん――」
…
……
………
――かすかに僕の名を呼ぶ声が聞こえる。
「あなたっ! しっかりして!」
「おじいちゃん!おじいちゃん!」
「ママ! 今、救急艇呼んだから!」
(道子……千里……春敏……千舟……)
「おじいちゃん、何か持っとる! 本? おばあちゃん? どしたん、泣いとるん?」
「これは……御朱印帳……ね。それにあの小箱も開けたのね……馬鹿ね……。ほんと……いつまで経っても子供なんだから……うぅ……。行ってらっしゃい……あなた」
意識が遠くなる中、最後に聞こえたのは道子の声だった。
………
……
…
道子、ありがとう。先に逝ってる……
いや……千鶴ねぇと先に待ってる。
また一緒に御朱印巡りしような――。
【完】




