第九十七話:売れない人形一座
精霊国エルシオン。その村外れに立つレイラの周囲を、張り詰めた空気が支配していた。
彼女の手に握られた墨花の書状。そこに記された「はじめの危機」が、彼女の胸を鋭く抉る。
「ウィンディーネ!」
レイラが鋭く、けれどどこか縋るような響きを込めて叫ぶ。
すると、周囲の湿気が一箇所に集まり、透き通るような水の粒子が人の形を成した。
召喚の儀式ではない。常にレイラの傍らに寄り添う、水の上位精霊が姿を現したのだ。
「呼びましたか? レイラ」
「一刻を争うんだ。悪いが、ユグドラシル様に繋いでもらいたい。頼めるか?」
不器用なレイラが、かつて「聞こえないふり」をしてまで遠ざけていた精霊の力。
それを今、一人の男の命を救うために迷わず使い切ろうとしていた。
「できますわよ。では、あなたの声を、ユグドラシル様に私が伝えましょう」
ウィンディーネの慈愛に満ちた声が、森の静寂に溶け込んでいく。
「なら、『万能解毒草』。これがどこにあるか、聞いてほしい」
「わかったわ。待っててね」
ウィンディーネはレイラの強い決意を受け止めると、眩い光の飛沫となって、森の奥深く――世界樹の根元へと消えていった。
ウィンディーネが光の彼方へと消えてから、精霊国特有の、静止したような時間が過ぎていった。
一分が一時間にも感じられるような、重苦しい沈黙。
レイラは拳を握り締め、ただ、世界樹の天辺を睨みつけていた。
時計の針が二度、円を描き終えた頃。
ようやく、空気中の水分が微かに震え、ウィンディーネが姿を現した。
「レイラ。お待たせしましたわ」
その声は穏やかだったが、どこか慎重な響きを帯びていた。
「どうだった! ユグドラシル様は……!」
「ええ、確かにお伝えしましたわ。『あの方』は、古き文献や記憶を遡って調べるから、返事は明日まで待ってほしいと、ことづかっております」
「明日!? そ、そんな……はじめは一刻を争うんだぞ!」
食ってかかるレイラを、ウィンディーネは静かに、けれど強く見つめ返した。
「焦る気持ちは分かります。ですが、万能解毒草は、世界樹にとっても失われた神話の領域。明日、午前十時に、私が再び『あの方』の元へ向かうことになっていますわ」
「十時……か」
レイラは奥歯を噛み締めた。
はじめに残された時間は、刻一刻と、削り取られている。
場面は一転し、湿ったカビ臭い地下通路の出口。
重い鉄扉の向こうから、微かに天使国の喧騒が聞こえてくる。
「出口ですね。皆様、大丈夫ですわね。打ち合わせ通りに、お願いいたします」
墨花の冷静な声が、全員の背筋を伸ばさせた。
扉がゆっくりと開かれ、彼女たちは白々しい「三文芝居」を開始する。
「えっと……この辺に、人形一座が来るって、聞いたんだけど……」
最初に飛び出したのは、ぬいぐるみのケルちゃんをぎこちなく抱えたベアトだ。
ケルちゃんはぬいぐるみに徹し、ピクリとも動かない。
「いたたた……。痛いー。お医者さん、ないの……?」
続いて現れたのは、腹を押さえて顔を歪ませるりり。
その背後から、「はじめ人形」を必死に抱えたアイと琥珀が続く。
「どうしたの? お嬢さん」
「お腹痛いの? 団長に聞いてくるね!」
アイの不自然なほどに大きな声が響く。
そこへ、墨花が貫録たっぷりに割って入った。
「だんちょーー。この子、おなか痛いんだって!」
「あらあら。それは困りましたわね……。あら、そこのぬいぐるみを大事に抱えているお嬢さん。この辺でお医者様はご存じない?」
「町外れに、腕のいい医者がいるって聞いたけど。……案内いる?」
「お言葉に甘えて。では、皆様いきましょう」
墨花の優雅な手招きに合わせ、一座は怪しげな人形とぬいぐるみを連れ、誰に怪しまれることもなく、ゆっくりと町外れへと移動を開始した。
街の人々は、大声を張り上げるアイや、ぎこちなく腹を押さえるりりを一瞥し、「ふん」と鼻で笑って通り過ぎていく。
「あの一座……。絶対、売れてないわね」
「見ろよ、あの人形運び。緊張で顔が引き攣ってるぜ。素人以下だな」
そんな冷ややかな嘲笑の言葉こそが、今は何よりも心地よい福音だった。
誰一人として、その「下手くそな旅芸人」が抱えている人形が、国家を揺るがす指名手配犯だとは夢にも思わないのだから。
「皆様、そのままですよ。視線を合わせず、自然に……」
墨花は扇子で口元を隠し、満足げに微笑んだ。
「売れない芸人」という完璧な隠れ蓑を纏い、一座はついに、追っ手の目を盗んで町外れへと辿り着いた。
町外れの門へと差し掛かる直前、墨花の鋭い視線が一人の保安官を捉えた。
装備が微妙に浮き、落ち着かなげに周囲をキョロキョロと見渡している。明らかに経験の浅い、気の弱そうな若手だ。
「あら、保安官様。なんだか騒々しいですのね。何かありました?」
墨花は優雅に歩み寄り、鈴を転がすような柔らかな声で問いかけた。
「う、うわっ!? あ、いや、その……」
突然声をかけられた若い保安官は、墨花の放つ気品と、絶世の美女いう名の圧倒的なオーラに呑まれ、完全に狼狽してしまった。
「あ、の……。現在、緊急事態でして、不審な人物を探しておりまして……」
「まあ、不審な人物? それは怖いですわね。わたくしたちのようなか弱い旅芸人一座が、巻き込まれたりしないでしょうか?」
墨花がわざとらしく胸に手を当てて見せると、若手の保安官は顔を赤らめ、しどろもどろになる。背後では、アイや琥珀が「はじめ人形」を抱えたまま、必死に「売れない芸人の練習中」を装って棒立ちになっていた。
その完璧な貴婦人の仕草に、若者は完全に毒気を抜かれ、守護者としての使命感に火がついたようだった。
「あ、……いえ! 我々保安部が全力で捜索中ですのでご安心を! 実は、『ひだまりの家』という施設で、重要参考人が逃走したという報が入っておりまして……」
「あら、まあ。……あんな静かな場所から逃走だなんて、怖いわ。……今はどのあたりを捜索されているのかしら? 避けて通らなければなりませんわね」
墨花の流れるような誘導。
若手保安官は、親切心のつもりで、最高機密に近い包囲網の状況をペラペラと喋り始めた。
「現在は、西の街道を重点的に固めています! ですから、皆様のような一座は、東側の門から速やかに出られるのが賢明かと……」
「東ですのね。……教えてくださって、本当に助かりましたわ」
墨花は優雅に一礼し、。背後の「大根役者たち」に目配せを送った。
アイや琥珀は、緊張で顔を強張らせながらも、必死に「売れない芸人」の無機質な表情を保っている。
「では皆様、親切な保安官様の教えに従いましょう」
墨花の一声で、一座は堂々と、敵の教えた「捜査の穴」へと歩み始めた。
若手保安官は、墨花たちの背中を見送りながら、満足げに頷いていた。
「一座の皆さん、無事に出られるといいな」
そんな彼の無自覚な善意を背に受け、墨花は一度も振り返ることなく東の門へと歩を進める。
門をくぐり、街の喧騒が遠のいた頃。
アイがようやく、肺の空気を一気に吐き出した。
「……ふぅ。生きた心地がしなかったわ……」
「アイさん、お疲れ様。はじめ様を離さないという使命感が、彼女を支えていたのですね」
墨花が優しく声をかけるが、すぐに周囲の暗がりに目を光らせた。
「皆様、油断は禁物ですよ。まだ敵の勢力圏内です。このまま森の奥へと急ぎましょう」
墨花の導きで、一座は「売れない芸人」という完璧な隠れ蓑を纏ったまま、夜の静寂へと溶け込んでいった。




