第九十六話:逃走劇の始まり
運命の砂時計が、無情にその粒を零していく。
―― ゼロ撃破から、残り29日 ――
天使国保安部。
怒号と、鳴り止まない通信音が、重苦しい空気の中に充満していた。
「まだ、はじめとめぐみの足取りは掴めんのか! お前たち、今の状況を本当に分かっているのか!?」
上司の怒鳴り声が、執務室の窓を震わせる。
「どんな些細な情報でもいい! 必ず、報告に来い。いいな!」
「分かってます! では、捜査に行ってきます!」
散っていく部下たちの背中に、焦りの色が濃く滲んでいた。
そして。……夜が明け。
―― ゼロ撃破から、残り28日。午前――
一人の部下が、血相を変えて飛び込んできた。
「めぐみの足取りが掴めました! 『ひだまりの家』という、施設に出入りしているとの情報です!」
「何だと……! なら、第一班を向かわせろ! 脅しても何でもいい。必ず、その先の情報を取ってこい! いいな!」
「了解しました! すぐに向かいます!」
ついに、『ひだまりの家』が捜査対象として、ロックオンされた。
はじめたちの安住の地は、今、巨大な国家権力という牙に剥き出しにされようとしていた。
ひだまりの家の静寂は、暴力的な衝撃音によって打ち砕かれた。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンッ!!
「開けろ! 保安部だ! ここに、はじめとめぐみが潜んでいるのは分かっている! 直ちに出せ!」
返答を待たず、重厚な木製の扉が蹴破られた。
なだれ込んできたのは、信仰という名の狂気を瞳に宿した保安官たち。
「ご、ご覧の通り、ここには誰もおりません。めぐみさんは、最近お見えになっていないのです」
震える声で立ち塞がるシスターを、指揮官の男は冷酷な目で見下ろす。
「大人は嘘をつく。その辺のガキを尋問しろ。素直に吐かないなら、殴って構わん」
「なっ……!? おやめください!」
制止の声も虚しく、幼い悲鳴が聖堂に響き渡った。
「きゃあああ! 痛い、。……痛いよぉ!」
「うえぇぇぇん! お母さん……!」
無慈悲に振るわれる拳と、泣き叫ぶ子供たち。
シスターは崩れ落ち、床を叩きながら懇願する。
「おやめください! 本当に、。……本当に……!」
「なら、そのガキどもを5、6人、保安部へ連れて行け。そこでじっくり尋問してやる。無事に帰って来られればいいがな」
男の口角が、歪に吊り上がる。
その脅しに、シスターの心は限界を迎えた。
(……はじめ様、……ごめんなさい。……子供たちを、……守らなければ……)
「こちらです。この隠し扉から、逃げて行かれました……」
震える指が、壁の隠し扉を指し示す。
「お前とお前は、保安本部に報告に行け! 残りは、俺に続け!」
地響きのような軍靴の音が、隠し通路の奥へと消えていく。
後に残されたのは、泣きじゃくる子供たちと、祈りを失ったシスターの慟哭だけだった。
地下通路の奥底。
静寂を切り裂くように、遠くから重い軍靴の音が反響してくる。
「あらあらあら。入口付近から、騒がしい物音がしますね。まあ、ここも、長く持った方でしょう」
墨花は落ち着き払った動作で、仲間たちへと向き直った。
「さあ、皆様、出口に移動しますよ。ケルちゃん、今まで、ライト、ありがとう」
「ワイは、光の精霊やからな。ライトぐらい、ちょちょいのちょいやで。ほな、いこか」
「はい!」
全員が即座に応じる中、ベアトが不安げに眉を寄せた。
「でも、このままでは、直ぐに見つかるのでは?」
「ちゃんと、ごまかし方は考えてますよ。まず、アイさん。はじめ様を、人形に変えて頂戴」
「え!? なぜですの!?」
唐突な提案に、アイが素っ頓狂な声を上げる。
「あなたのスキル『人形化』。これは、そこで固まるだけ。人体への影響はない。そうよね?」
「それは、そうですが……」
「まず、人形にしたはじめ様。これで、この瀕死の状態も、動かせるのでは?」
「あ……!」
アイが息を呑む。
人形化。それは対象を無機物として固定する力。
肉体の損傷も、毒の侵食も、その瞬間で『静止』させることができる。
「こうでもしないと、この先の逃亡、難しいでしょ? あと、もう一つ。人形に変装を施し、別人に仕上げます。というより、より人形に見えるように。ね?」
「なるほど。さすが、墨花ねぇ様。私たちは、バレてない。で、変な人形を持って移動してるだけ。ってことですわね」
ベアトが納得したように頷く。が、すぐに疑問が生まれたようだ。
「なら、はじめ様が完治するまで、ずっと人形にしておく方が、いいんではないの?墨花ねぇ様」
「一見、そう思えるわよね。ただね?はじめ様を人形にするというのは、その時点で、記憶の追加が出来なくなる。つまり、はじめ様には、状況把握が出来なくなる。それって、実は、一番のリスクだって、わかるわよね?ベアトさん」
墨花は、その質問が来ることを待ち構えていたかのように、直ぐに返事を返した。
「なるほど……私たちの、頭脳。ですものね……移動時以外は、人形を出来るだけ避ける……」
ベアトが再び、納得したように頷く。
「さすがね、ベアトさん。ではまず、人形にする前に、りりさん。もう一度、ヒールを」
「はい! 全力で掛けます!」
りりの祈りが、はじめを包み込む。
それが終わるのを待って、墨花は力強く指示を飛ばした。
「力持ちの琥珀ちゃんと、アイさん。二人で、人形さんを運んでね♪」
「まかせて!」
「わかりましたわ!」
墨花が、はじめにそっと、つぶやく。
「はじめ様。少しの辛抱です。また、直ぐに戻しますから……」
「わかった……たのむ……」
はじめは、息もとまるかのような声で、精いっぱい返事をした。
早速、全員で、逃走の準備に取り掛かった。
それは、追っ手の足音が背後に迫る中での、命を懸けた、早着替えだった。
天使国の喧騒から遠く離れた、生命の息吹に満ちた精霊国。
そこには、時間が止まったかのような静謐な森が広がっていた。
―― ゼロ撃破から、残り28日。午後――
精霊国のエルシオンの村はずれ。
窓辺で遠くの空を見つめていたレイラの瞳に、一つの小さな『光の点』が映り込む。
「……? あれは……」
黄金色の羽を羽ばたかせ、必死の形相で森を抜けてくる巨大な影。
墨花の鷹、ぴーちゃんだ。
「もしや。あれが、墨花さんが言っていた、ぴーちゃん!?」
レイラが窓を開け放つと同時に、限界まで飛び続けたぴーちゃんが、そっと村はずれの広場に降り立つ。足首には、墨花の紋章で封じられた一通の書状。
「はじめに、何かあったんだな……やな予感がする」
震える手で封を切り、レイラはその内容に目を走らせる。
そこには、はじめの危機と、伝説の『万能解毒草』を求める墨花の切実な願いが綴られていた。
「……『万能解毒草』か。……もしかしたら、あの方なら知ってるはず……」
一刻を争うはじめの命。彼女の孤独な探索が、今、始まった。




