第九十三話:脱出です。ひだまりの家です
教皇室の重厚な扉の外。
警備に立つ兵士たちの間に、微かな、けれど拭い去れない違和感が広がり始めていた。
「そういえば……あれから、もう3時間ほど経っていますね。謁見した2人、まだ帰った様子はないですが」
兵士の一人が、手持ち無沙汰に槍を握り直す。
もう一人の兵士も、怪訝そうに首を傾げた。
「ああ、ないな。終わった、との報告も受けていない」
「いくら教皇様に『連絡があるまで待つように』と言われていても、全く確認しないのは……」
そこへ、鋭い視線を向けた上級兵士が割り込んだ。
「そろそろ、一度、教皇様の様子を確認してこい。無礼のないようにな」
「わかりました!」
一人の兵士が、緊張した面持ちで巨大な扉の前に立つ。おそるおそるノックを響かせた。
「教皇様……。そろそろ、お茶のお替わりなど……」
――返事はない。
室内からは、衣擦れの音一つ聞こえてこなかった。
「……なんか、おかしくないか?」
「そうだな。……ここは確認しよう」
兵士たちの顔に緊張が走り、一人が力任せに扉を押し開けた。
――ばぁぁぁぁん!!
豪奢な絨毯が敷き詰められた室内。
だが、そこに主の姿はなかった。
「おかしいぞ!! 教皇様も、謁見に来た2人も……いない!!」
兵士の叫びが、誰もいない室内に虚しく響く。
ふと、開け放たれた窓から冷たい風が吹き込み、カーテンを大きく揺らした。
「……窓が開きっぱなしだ。まさか……!!」
兵士の顔から、血の気が一気に引いていく。
平穏だった城の静寂を切り裂くように、彼は喉の限りに叫んだ。
「緊急警報を鳴らせ!! 教皇様が誘拐された!!」
「謁見に来た『はじめ』『めぐみ』を、重要参考人として、指名手配しろ!! 今すぐにだ!!」
上級兵士の怒号が、石造りの廊下に反響する。
教皇が消えたという未曾有の事態。平和な空気が、一瞬にして「狩りの時間」へと塗り替えられていく。
「わかりました!!」
兵士たちが、抜剣の音を響かせ、四方へと散っていく。
「はじめ」という名前が、一般人から「大罪人」へと、書き換えられていく瞬間だった。
場面は変わり、ひだまりの家。
「では、まず、レイラさんに、親書をしたためます」
墨花は震える手でペンを走らせる。
書かれたのは、はじめが毒に侵され、瀕死だということ。そして、その解毒に必要な「万能解毒草」を至急持ってきてほしいという、切実な願いだった。
書き終えた墨花は、足早に家の外へと飛び出す。
彼女は懐から、鋭い銀色の笛を取り出し、空を仰いで短く吹き鳴らした。
――ピュゥゥィィィィィッ!!
空気を切り裂く高音が、曇り空に吸い込まれていく。
直後、上空の雲を割り、巨大な猛禽類「ぴーちゃん」が、砂埃を巻き上げて広場へと舞い降りた。
「では、ぴーちゃん。この親書を、精霊国にいるレイラさんに、最速で届けておくれ。わかるわよね?」
墨花が親書をしっかりとセットする。
ぴーちゃんは、意志の強さを宿した瞳で一度頷くと、「ぴぃぃぃぃ!!」と高く鳴き声を上げた。
力強い羽ばたきが、広場の土を蹴り上げる。
ぴーちゃんの巨躯は、瞬く間に高度を上げ、精霊国を目指して、空の彼方へと消えていった。
「うぅ……っ……!!」
はじめの低い呻きが、静まり返った屋敷に響く。
腹部の傷口は、傷口は深く、シーツを赤黒く染め上げる勢いは衰えていない。
「りりさん!……治すことより、まず出血を止めることだけを、意識してヒールを!!」
墨花の鋭い指示に、りりは涙を拭い、必死に温かい光を構築し始めた。
墨花自身も、自前の「造血剤」を取り出し、はじめの口元へ流し込む。
これで血さえ止まれば……
暫く、重苦しい時間が流れる。
蒼白な顔のはじめを、ベアトと琥珀が、祈るような目で見つめる。
外の異変を察した墨花が、窓の外に視線を投げた。
その足元では、未だにアイが泣き崩れている。
「なんだか、だんだん、外が騒がしくなってきましたね。嫌な予感がします。皆様、移動しますよ!!」
墨花の言葉に、ベアトが弾かれたように顔を上げた。
「墨花ねぇ様! この状態ではじめ様を動かして、平気なんですの!?」
「ヒールがこれ以上、効いた気がしません……っ!!」
りりの悲痛な叫び。
琥珀は無言で、はじめの冷え切った手をそっと握りしめる。
「アイさん!! いつまで泣いているの!! このままでは、はじめ様、死ぬ前に捕まりますよ!? それでいいの!?」
墨花の叱咤が、アイの心を強く撃ち抜いた。
「わかりましたわ。もう、泣きません。……はじめ様は、私が担ぎます!!」
アイが立ち上がり、決然とした瞳ではじめを背負い上げる。
その様子を見ていたケルちゃんが、「はぁぁ」と大きなため息をついた。
「ああー、しゃあないなぁー。こんなサービス、普通せぇへんのやけど。……ワイも行くわ」
ケルちゃんの同行。それは、この逃走劇における、最高の「生存フラグ」だった。
シスター・テレーズが、険しい表情で手招きをする。
「こちらから、奥へ。前のオーナーが作った、地下階段です。これで、中央広場の噴水そばまで移動できます」
墨花が、驚きに目を見開いた。
「なんで、こんなものを?」
「実は、ここは隣の魔人国と戦争ばかり。……なので、前のオーナーが、もしものための脱出経路を作っていたんです」
テレーズの説明に、墨花は、深く頷いた。
過去の争いの傷跡が、皮肉にも今、彼らを救おうとしている。
「なるほど。助かりますわ。では、お言葉に甘えて!!」
墨花の合図で、アイがはじめを背負い、全員が動き出す。
テレーズが『ひだまりの家』の巨大な本棚に手をかけると、鈍い音を立てて壁が割れた。
そこには、闇の奥へと続く石造りの階段が、静かに口を開けていた。
「急いで!!」
背後で玄関の扉が、叩き壊される予感を感じながら、一行は足早に、地下の闇へと消えていった。




