第九十二話:ペインター登場
「はじめ、大丈夫……!?」
家を飛び出してきためぐみの、弾むような足音。
それははじめにとって、最も守りたかった「平穏」そのものだった。
駆け寄るめぐみの細い腕を、はじめは優しく、けれど確かな体温を感じるように抱きしめる。
ゼロとの死闘、積み重なった疲労。
それら全てを溶かすように、はじめは静かに呟いた。
「ああ……もう、終わったよ……」
だが、安堵の隙間に、冷酷なノイズが、空を切り裂いて響き渡る。
『第三ステージクリア。おめでとう! コングラッチレーション♪』
ミラーの、吐き気がするほど軽い祝福。
そして、かつての親友、しゅうの執着に満ちた声が続く。
『流石、僕の親友だ。君はよく「俺は出来る子だ」って、ぶつぶつ言っていたねぇ』
嘲笑うような、けれどどこか切なげなしゅうの声。
『今回で確信したよ、はじめ君。やっぱり君を潰さないと、僕の計画は成功しなさそうだ。だろう? ミラー』
『そうですね、しゅう様。はじめ攻略が、このゲームマスターに与えられた使命みたいです♪』
ミラーの無邪気な宣告。
『では、気をとり直して♪ 第四ステージ、開始!』
その瞬間だった。
はじめの腕の中にいたはずの、愛しい「めぐみ」の指先が、鈍い銀色を閃かせる。
――グチャリ。
柔らかな肉を裂き、深々と、腹部を貫く異物感。
一度、二度、三度。
無慈悲に繰り返されるピストンの衝撃。
はじめの口から、赤い鮮血が零れ落ちる。
背後にいたベアトも、りりも、時が止まったように固まっていた。
「な、何を……するんだ……めぐみ……」
はじめの口から、溢れたのは血と、信じがたいものを見た絶望の掠れ声だった。
刺された痛みよりも、腕の中にいたはずの温もりが、冷酷な刃に変わった事実が、はじめの思考を停止させる。
「めぐみですてぇ? ぎゃははは!!」
その声は、かつての愛らしさを微塵も残していない。
歪な笑い声と共に、めぐみの輪郭がノイズのように揺らぎ、剥がれ落ちていく。
「私は、めぐみ。あー……もう、そのお芝居いらないんだわ。ぎゃははは!! 私は、ペインター!!」
幻影が霧散し、そこに現れたのは極彩色の狂気を纏った少女。
その姿を見たアイが、苦々しく、けれど確信を持って一歩前に出る。
「やっぱり……知っている雰囲気がずっとするから、おかしいと思っていましたわ。ペインター」
「お久しぶり、お姉さま。いえ、裏切り者のアイアン。いえ、今は『アイ』だったかしら? あははは!!」
ペインターの嘲笑が、凍りついた戦場に響き渡る。
我に返ったりりが、真っ青な顔ではじめの傷口に手をかざした。
「はじめ様、すぐにお治しします!!」
「あららぁ。低俗なヒールごときで、治ると思ってんの? ウケるんですけどぉ!!」
ペインターは、りりの必死な祈りを一蹴するように、倒れ込むはじめを見下ろす。
「めぐみとして、ここで半年もいい顔してきた、この屈辱。あんたも半年間、地獄の苦しみを味わいなさい。はじめぇ!!」
憎悪を叩きつけたペインターは、アイ、はじめ以外の存在など、視界の端にも入れていない。
「では、お姉さま。いえ、アイ。ごきげんよう」
彩りの残像だけを残し、ペインターはその場から跡形もなく消え去った。
「皆さん、手を貸して! とりあえず、はじめ様を ……中へ!!」
墨花の震える、けれど凛とした指揮で、全員で血の気の引いたはじめを抱え上げる。
そっと寝かされたベッドのシーツが、瞬く間に赤く染まっていく。
「このままでは、はじめ様が……半年持つかも、あやしい。アイさん、ペインターのこと、何かご存じですのね?」
墨花の問いかけに、アイの肩が、大きく震えた。
「私の……妹です。……ごめんなさい……っ!!」
アイは崩れ落ちるように膝をつき、慟哭を上げた。
かつての強気な姿は、どこにもない。
「アイお姉ちゃんは、悪くないよ……?」
琥珀が、小さな手でアイの背中に触れる。
その温もりが、今のアイには、あまりにも、切ない。
「そうです。アイさんは、ちっとも、悪くありません」
りりの、透き通った声が重なる。
「それにしても、あの、色狂いメス豚は、ムカつきますわね!!」
ベアトの、怒りに震える罵倒。
それは、行き場のない悲しみを無理やり攻撃性に変えた、彼女なりの優しさだったのかもしれない。
「アイさん。誰もあなたを責めてませんわ。それより、この毒。何かご存じないの?」
墨花が、沈痛な面持ちで、はじめの腹部を見つめる。
「何も……分からないんです。ごめんなさい……っ。ごめんなさい……!!」
アイの謝罪だけが、静かな部屋に空しく響き渡る。
重苦しい静寂が部屋を支配し、アイの啜り泣きだけが響く中。
場違いなほど明るい声が、ノックもなしに放り込まれた。
「自分ら、なにしてんの? めっちゃ暗い顔して」
ひょっこりと顔を出したのは、ライオンのぬいぐるみ。ケルちゃんだった。
「ケルちゃん……っ!! はじめ様が……はじめ様が、……変な毒で。……私のヒールでは、……治らなくて……!!」
りりが縋り付くように叫ぶと、ケルちゃんは「はぁぁ」と大げさに肩をすくめてみせる。
「しゃあないなぁ。ちょっと、……見してみー」
ケルちゃんは軽い足取りではじめの枕元に寄ると、手慣れた手つきではじめの患部を触診しだした。
シーツを汚す黒ずんだ血を指先で拭い、クン、と鼻を鳴らす。
「あー…… この毒かいな。これ、半年くらいかけて、徐々に壊死させる、厄介な毒やでぇ」
その言葉に、その場にいた全員の心臓が跳ね上がる。
だが、ケルちゃんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「でも、自分ら、……ついてるなぁ」
「え……?」
「この毒、治す方法知っとる、ワイがおるさかい」
墨花が、信じられないものを見るように、身を乗り出した。
「え? 知ってるんですの!?」
「これなぁ。精霊国に、ある薬草がいんねん」
ケルちゃんは、はじめの傷口を覗き込んだまま、どこか遠くを見るような目で呟いた。
その場にいる全員の視線が、ケルちゃんの一挙手一投足に集中する。
「でもなぁ。遠いしなぁ。……どないしよ?」
ケルちゃんの飄々とした態度に、墨花が一歩詰め寄った。
「なんて薬草ですの……!?」
墨花の切実な問いに、ケルちゃんは重々しく口を開く。
「精霊国の奥深くにしか咲かん、『万能解毒草』や」
ケルちゃんの言葉と共に、部屋の空気が張り詰める。
「今の状態やったら、はよぉその草を煎じて飲ませれば、毒の進行を完全にとめられるわ。でもなぁ……」
「万能解毒草ですね。分かりましたわ」
墨花は、迷いのない手つきで、はじめの額に濡れたタオルを置く。
その落ち着きに、ベアトが不安げな声を上げた。
「墨花ねぇ様。どうする気ですの。まさか、お一人で取りにいらっしゃるおつもりですか? 私の羽が元気なら、行きますのに!!」
悔しそうに自分の動かない羽を、強く握りしめるベアト。
だが、墨花は静かに首を振った。
「いいえ。こんな時こそ、現地にいらっしゃる方に動いていただくべきですわ」
「え? だれ?」
ベアトの問いに、りりがハッとしたように、目を見開く。
「ま……まさか……」
「レイラお姉ちゃん?」
琥珀の小さな呟きに、墨花は力強く頷いた。
はじめを救えるのは、今、精霊国にいる「彼女」しかいない。
「ぴーちゃんに頼んで、現地のレイラさんに、持ってきてもらいましょう!!」
その宣言は、暗雲に射し込んだ一筋の、救いの光だった。




