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第八十九話:凍土の世界

教皇庁の冷気から逃れ、一行が辿り着いた『ひだまりの家』。

そこには、その名の通り、柔らかな午後の日差しと、子供たちの笑い声が満ちていた。


「みてみてー! めぐみせんせー! ケルちゃん連れてきたよ!」


一人の幼い女の子が、大事そうに両手で抱えたぬいぐるみを掲げて走ってくる。

それは、鮮やかな黄金色の毛並みをした、可愛らしいライオンのぬいぐるみだった。


「あら。ケルちゃん、お散歩に連れてきてもらったのね」


めぐみが、まだ少し顔色の悪い微笑みを浮かべて、女の子の頭を優しく撫でる。

その横で、はじめは、そのぬいぐるみのフォルムと名前に、強烈な違和感を抱いていた。


(……待て。黄金のライオン。名前は、ケルちゃん……?)


「あ、あの、めぐみさん。その子の名前、『け……ろ』……じゃなくて、『ケル』……なんですか?」


はじめが、著作権の境界線を探るような視線で、生唾を飲み込んだその時。


「せや。自分、さっきから『けろ』やら『ける』やら、うるさいなぁ!!」


ぬいぐるみが、いきなり首をカチリと一八〇度回転させて、はじめを睨みつけた。


「うちは『ひだまりの家』の精霊、ケルちゃんや! 文句あるんか? ……こにゃにゃちわ!」


「しゃ、喋ったぁぁぁぁぁぁぁ!!?」


はじめの絶叫が、ひだまりの家のプレイルームに空虚に響き渡る。

しかし、周囲の子供たちは驚く様子もなく、「あ、ケルちゃんがまた怒ってるー」とクスクス笑っているだけだ。


「自分、さっきから失礼なやっちゃなぁ。ぬいぐるみが見た目通り大人しいと思ったら大間違いやで?」


黄金色のライオン――ケルちゃんは、女の子の腕の中で器用に前足を組み(ぬいぐるみの可動域を超えていたが)、はじめをジロリと睨み据えた。


「い、いや、だって……精霊って、普通は魔力の適性がある特定の人としか意思疎通できないんじゃ……それこそ、……聖女のりりさんとか、純真な琥珀ちゃんくらいにしか聞こえないはずじゃ……」


はじめがおそるおそる、これまでの「ファンタジーの常識」を口にする。

すると、ケルちゃんは鼻で笑うような音を立てた。


「自分、何古臭いこと言うとんねん。そんなん、精霊側が『こいつと喋るんめんどいわー』『こいつの波長、ノリ悪いわー』って拒否しとるだけや。うちはサービス精神旺盛やからな、誰にでも聞こえるようにボリューム設定を最大にしとんねん。感謝してや?」


「ボリューム設定の問題だったのかよ……!?」


はじめは目眩を覚えた。

世界を構成する高貴な存在であるはずの精霊が、まさか「ノリが悪いから無視しているだけ」という極めて人間臭い理由で沈黙していたとは。


「じゃあ、なんでそんな自由奔放な精霊が、わざわざこんな場所に、……こんなぬいぐるみに憑依してるんですか?」


「あー、それな。精霊国、……めっちゃつまらんかってん」


ケルちゃんは遠い目(ボタンの目だが)をして、深くため息をついた。


「どいつもこいつも真面目腐ってて、ツッコミ一つ入れへんし。ボケてもスルー。空気読みすぎて湿気すごかったわ。退屈すぎて家出してきて、この子が持ってたぬいぐるみが寝心地良さそうやったから、ちょっと間借りしとるだけや」


「………この世界、真面目に考えたら負けな気がしてきた」


はじめは、窓の外から差し込む穏やかな光を見つめながら、そっと天を仰いだ。

だが、そんなはじめの哲学的な葛藤など、黄色いライオンには知ったことではないらしい。


「あー、自分。喋りすぎて腹減ったわ」


ケルちゃんはボタンの目をパチクリとさせ、大きな欠伸(ぬいぐるみなので口は動かないが、音だけは一丁前だ)を一つ。


「眠いから寝るわー。ほななぁ」


その言葉を最後に、ケルちゃんは女の子の腕の中で、カクンと首を落として完全に沈黙した。


「…………」


静寂が戻ったプレイルームで、はじめだけが何とも言えない強烈な虚脱感に包まれていた。

だが、その平穏は。……長くは続かなかった。


「――っ、きゃああああああああ!!」


外から響いた、……引き裂くような悲鳴。

はじめ、めぐみ、そしてベアトたちが顔を見合わせ、弾かれたように庭へと駆け出す。


「なっ、……これは……!?」


庭に広がっていたのは、季節外れの銀世界。……ではない。

それは。……命を拒絶するような、どす黒い氷の世界だった。

中心には、……新米のシスター・セシリアが倒れ伏している。


「あ、……あ……っ」


セシリアの腹部には、……触れるだけで指が凍りそうなほど凄惨な凍傷が刻まれていた。

傷口からは血が流れる間もなく、青白い氷がパキパキと音を立てて、彼女の体を侵食していく。


「セシリアさん!! 今、治しますから……っ!!」


りりが駆け寄り、必死にヒールの光を注ぎ込む。

だが、温かな浄化の光は、冷酷な氷に弾かれ、一向に届かない。

それどころか、光を吸うように氷の蔦が速度を増し、五分と経たぬうちに、セシリアの体は美しい、だが物言わぬ『氷像』へと変貌を遂げた。


「……あー。やっと……きた。……待ってたよ」


氷の結晶が舞う中、 絶望から現れたのは、感情の一切を凍結させたような少年、ゼロ。

その無機質な瞳が、はじめを射抜く。


「はじめ、。……危ないから、……下がった方が……っ!!」


めぐみが震える声で、はじめの前に立とうとする。

だが、はじめは動かなかった。

セシリアだった『氷の塊』を、拳が白くなるほど強く握りしめ、静かに、だが烈火のごとき怒りを燃やして前を見据える。


「……こんなことされて、ほっとけるほど。……人間出来てないんだよ」


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