第八十八話:第三ステージのクリア条件
石畳を叩く激しい雨のような喧騒が、ようやく遠のいていく。
墨花は、肩に担いだめぐみの重みを感じながら、静かに思考を巡らせていた。
(さて、はじめ様は無事救出できましたわ。ですが、めぐみさんは相変わらず。……心の色がグレーのまま。さて、どうしたものかしら……)
その時、完全に意識を失っていたはずのめぐみの唇が、微かに震えた。
「……と、とりあえず。……こ、ここから。……ち、近い。……『ひだまりの家』へ……」
絞り出すような、掠れた声。
それが精一杯の拒絶なのか、それとも救いを求める本能なのか。
めぐみはそれだけを言い残すと、再び深い眠りの底へと沈んでいった。
(まあ、このままでは、埒が明きませんわね。行きましょうか、『ひだまりの家』へ)
墨花は小さく溜息を吐くと、懐から「伝声の魔晶石」を取り出した。
「最終フェーズ、終了。全員、直ちに『ひだまりの家』へ向かってください。そこで落ち合いますわ」
冷然とした、だが確かな信頼を込めた声が、教皇庁の混乱を脱した仲間たちの元へと響き渡った。
「み、皆さま、……どうなさったの? さあ、こちらへ」
穏やかな、だが芯の通った声。
ひだまりの家の主、『シスター・テレーズ』に導かれ、一行は静寂に包まれた施設の休憩所へと滑り込んだ。
教皇庁の喧騒が嘘のように、そこには陽だまりのような温かな空気が満ちている。
「めぐみさん。……これを」
墨花は、担いでいためぐみを椅子に預けると、手際よく麻痺消しの薬を取り出した。
意識が朦朧としていた彼女の喉に、それを流し込む。
虚ろだっためぐみの瞳に、少しずつ光が戻り、周囲の景色を認識し始める。
そこへ、遅れて到着したアイ、りり、琥珀の三人が合流した。
「皆さま、大丈夫でしたか?」
「ええ、アイさんのおかげで、追手にも追われずに無事逃げられましたわ。ありがとう」
墨花の素直な感謝に、アイは意外そうに目を瞬かせ、頬を林檎のように赤らめて俯いた。
「ところで、……はじめ様は?」
りりが心配そうに辺りを見渡す。その視線の先に、救出の主役であるはずのはじめの姿はない。
「ベアトさんが、空から運んでますわ。でも、重いのでしょう。時間が掛かっているようですわね」
「はじめ様、食べてばっかりだったから、太ったんじゃ?」
琥珀がお菓子を頬張りながら、特大のブーメランを飛ばした、その時。黄金の羽が、窓を叩いた。
「やっと着きましたわ! はじめ様、とっても、重たかったですわぁ……」
ベアトが、息を切らしながらはじめを運び入れる。
彼女の腕の中で、はじめはぐったりと首を垂れ、ピクリとも動かない。
……だが。その胸の内で、彼は必死に叫んでいた。
(……ヤバい。……このまま目を開けたら、墨花さんに何を言われるか分からない。……今はまだ、寝たふりだ。寝たふりを貫き通すんだ……!)
墨花は、はじめの口元に麻痺消しの薬を無理やり流し込んだ。
ごくん、という嚥下音。薬は確実に効いているはずだが、はじめは依然としてピクリとも動かない。
「おかしいですわね。……起きませんわ」
「きっと、お疲れなのですわ。私が癒して差し上げます」
りりが慈愛に満ちた表情で、はじめの胸元に手をかざした。
「ヒール!」という掛け声と共に、淡い光がはじめを包む。
だが、はじめは頑なに目を開けない。
(……ダメだ。今ここで起きたら『さあ、言い訳をどうぞ』って墨花さんの詰められる。……寝るんだ。深い眠りにつくんだ。はじめ。俺は出来る子だ……!)
「はじめ様! どうしたのですか!?」
「はじめ、しっかりして! 私たちの声、聞こえないの!?」
本気で心配して顔を覗き込むアイとベアト。
少女たちの、切実な呼びかけ。普通の主人公ならここで「心配かけたね」と起き上がるところだが、はじめは違った。
(おきちゃだめだ。おきちゃだめだ。おきちゃだめだ……)
「……あら。これだけして起きないのなら、もう、必要ありませんわね」
墨花が、氷のような笑みを浮かべながら、言い放った。
「……そのへんのゴミ捨て場にでも、ポイしてきましょうか♪」
「……す、捨てるってー!! きいてないですよぉ!!」
ガバッ!! と、音を立ててはじめが飛び起きた。
あまりの勢いに、覗き込んでいた三人が「きゃっ!」と仰け反る。
「もう! 墨花さん! 冗談でも『捨てる』とか言わないでくださいよ! 僕なりに、色々考えて、寝たふりしてたんですから」
はじめは頭を掻きながら、情けない声を上げてぐちり始めた。
一方その頃、教皇庁のさらに奥深く。
冷気と闇が渦巻く一室で、二人の影が密やかに、そして残酷に言葉を交わしていた。
「はじめくん。見事に、第二ステージ。クリアしたねぇ。まあ、彼、何もしてないけど」
しゅうは、魔晶石に映る『ひだまりの家』の様子を、皮肉な笑みを浮かべて眺めていた。
その隣で、同じく微笑んでいる、ミラーへと視線を向ける。
「ミラー。第三ステージは、ちゃんと用意してるんだろう?」
「しゅう様。もちろんだよ。僕がこんなに面白い遊び、用意しないわけないだろう?」
ミラーは、狂気を孕んだ瞳を輝かせながら叫んだ。
「ゼロくん! さあ、君の番だよ。はじめくんたちを、氷の彫刻に変えてきておくれ!」
部屋の隅、壁に背を預けていた一人の少年が、氷のような冷徹な眼差しで顔を上げた。
「ちぃっ。……めんどくせ……」
ゼロは忌々しげに舌打ちをすると、音もなく立ち上がり、闇の中へと消えていく。
「第三ステージは、ゼロくんとの直接対決だよ。さあ、生き残れるかな?」
ミラーの、楽しげな、歪んだ笑い声だけが、いつまでも暗い部屋にこだましていた。




