第八十六話:教皇様です。謁見です
教皇庁の控室は、外界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む真昼の陽光が、豪奢な絨毯の模様を鮮明に浮かび上がらせている。
「なぁ。めぐみ。何にも持ってこなかったけど、手土産、いらなかったの?」
はじめは居心地悪そうに、何度も自分の身なりを整えながら尋ねた。
めぐみは、その様子を可笑しそうに眺めながら、鈴を転がすような声で笑う。
「うふふ。大丈夫よ、はじめ。そんな心の狭いかたじゃないから、安心よ。はじめ、それより、緊張してるの? 膝が震えてるように見えるけど♪」
「当たり前じゃないか! めぐみに良くしてくれる、恩人に会うんだから。緊張しないわけないだろ」
はじめの言葉に、めぐみは一歩歩み寄り、彼の手を優しく包み込んだ。
その指先は驚くほど冷たく、けれど柔らかった。
「あはは。結婚を申し込みにいくわけじゃないんだから。……でも、本当に、しちゃう?♪」
「ばか。今はそれどころじゃないだろ……」
はじめが顔を赤らめて視線を逸らした、その時だった。
重厚な木製の扉が音もなく開き、一人の使いが深々と頭を下げた。
「謁見の準備が整いました。どうぞ、こちらへ」
その慇懃無礼なまでの丁寧さは、これから足を踏み入れる場所の「重さ」を物語っていた。
はじめは深く息を吸い込み、隣で微笑むめぐみと共に、……教皇の待つ部屋の前へと歩み出した。
教皇庁の最上階へと続く、……白く長い廊下。
その天井の梁、日光すら届かないわずかな闇の中に、墨花は音もなく潜んでいた。
眼下では、使いに案内されたはじめとめぐみが、重厚な扉の前へと辿り着こうとしていた。
はじめの緊張した足音と、めぐみの軽やかな衣擦れの音。
墨花は扇をわずかに開き、その鋭い瞳を細める。
(あら。やっと、見つけましたわ♪)
彼女は懐から、小指ほどの大きさの透き通った水晶を取り出した。
それは、……特定の魔力波長に反応する、隠密専用の「伝声の魔晶石」だった。
「……はじめ様を発見いたしましたわ」
墨花の声は、……風の囁きほどの音量でありながら、……地上のアイたち、そして上空のベアトが持つ対の石へと、鮮明に響き渡る。
「『五星連弾』……これより、……第二フェーズへ移行いたしますわよ。皆様、よろしくて?」
その問いかけに、それぞれの場所で四人が力強く頷く。
「了解!!」
門前の喧騒の中でアイ、りり、琥珀が、そして雲海の下でベアトが。
五人の意識が、……見えない糸で一本に繋がった。
「はあ。……通してくれないようですわね。では、皆さん、一旦宿に帰りましょう」
「しかたないでね。……聖女様」
「けちんぼ!べぇーだ」
アイはわざとらしく大きな溜息をつき、門番たちに背を向けた。
りりも琥珀も、肩を落としてトボトボと彼女に続く。
曲がり角を曲がり、教皇庁の門番たちの視界から完全に消えたその瞬間。
三人の瞳が、……輝きを取り戻した。
「第二フェーズ、開始!」
アイが短く、鋭く号令を下す。
彼女がパチンと指を鳴らすと同時に、先ほどまで正門前に立っていた数名の警備兵たちの姿が、ぐにゃりと歪んだ。
悲鳴を上げる暇さえない。肉体は硬質化し、精巧な「人形」へと変貌していく。
「今ですわ、りりさん!」
「了解しました!」
りりは指先から白く細い蜘蛛の糸を放ち、人形と化した兵士たちを一瞬で絡め取った。
それはまるで、出荷を待つ荷物のように手際よく、かつ音もなく。
「私、こっちに運ぶね!」
琥珀は小さな体で信じられない怪力を発揮し、糸で縛られた人形たちを次々と物陰へと放り込んでいく。運び終わった人形からは、蜘蛛の糸も回収されていく。
アイの「人形化」、りりの「拘束」、琥珀の「隠蔽」。
完璧な連携によって、正門の警備は音もなく消失した。
「ここからは、決して、誰にも見られないように。見られたら、作戦がおじゃん。ですわ」
アイは人形になった兵士の顔を見下ろし、冷たく言い放つ。
「わかってるよ! 人影が近づいたら、すぐ教えるね!」
琥珀が耳をぴんと立て、周囲の気配を全神経で探る。
陽光が照らす平和な真昼の街角で、……彼女たちの戦いは、誰にも知られぬまま加速していった。
アイは、動かなくなった人形たちの眉間に、冷ややかな指先を這わせた。
「ふふ……。安心なさいな。貴方たちが目を覚ます頃には、すべては終わっていますわ」
彼女の魔力が人形の核に浸透し、その意識の連続性を断ち切っていく。
この術が解けた時、彼らの脳裏に残るのは「聖女(自称)が立ち去った」という直前の光景だけ。
そこから先の記憶は、一切残らない。
「よし。これで正面の目は完全に潰せましたわ。りりさん、琥珀さん。お次の獲物を探しましょうか♪」
人形を物陰に隠し終えた三人は、再び静かに、獲物を待つ蜘蛛のように気配を消した。
「はじまりましたわね。でも、さすが、墨花ねぇ様。よくこんな作戦、思いつくもんですわ。えげつない♪」
教皇庁を遥か見下ろす上空。
ベアトは黄金の羽をゆったりと広げ、上昇気流に乗りながら独り言を漏らした。
魔晶石を通して伝わってきたアイたちの鮮やかな「掃除」の手際に、彼女は愉快そうに唇の端を吊り上げる。
「私は、第二フェーズではやることはありませんけれど……。でも、次はありますから。準備しませんと」
そう言うと、ベアトは空中を一蹴りし、……自らの手足の感覚を確かめるように、軽く屈伸や旋回を始めた。
薄い雲を切り裂き、真昼の太陽を背に受けて黄金の残光を散らす。
ベアトは己の羽に極限まで魔力を溜め込み、自分の出番をじっと待ち続けていた。
「ごくり……」
はじめは、張り詰めた緊張で乾ききった喉を鳴らした。
重厚な観音開きの扉が、儀式のようにゆっくりと、……内側へと開かれていく。
「ようこそ、めぐみさん。その方が、めぐみさんのおっしゃっていた、大事な人かな?」
玉座に深く腰掛けた老人は、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを浮かべていた。
教皇。この地の頂点に立つ男の1人、あまりにも穏やかな声。
「はい。お世話になっております、教皇様。本日はどうしてもご紹介したくて、連れてまいりました」
めぐみが一歩前に出て、慣れた様子で頭を下げる。はじめも慌ててそれに倣う。
「では、皆様。立ち話もなんですから、そちらにお座りください」
促されるまま、三人は豪奢な革張りのソファへと腰を下ろす。
テーブルの上には、……湯気の立つ茶器が用意されていた。
「お茶でも、どうぞ。緊張を和らげる、特別な香草のものですよ」
教皇に勧められ、はじめ達は「ありがとうございます」と小さく会釈した。
礼儀として、そして乾いた喉を潤すために、差し出されたカップを手に取り、中身をごくりと飲み干す。
「……うっ」
数秒後。はじめの視界がぐにゃりと歪んだ。
隣では、めぐみもまた「あ……」と弱々しい声を漏らし、そのまま崩れるようにソファへ倒れ込む。
はじめは自分の指先から感覚が消えていく恐怖に耐えながら、。……。……薄れゆく意識の向こうで、変わらぬ微笑みを浮かべる教皇の姿を捉えていた。
「き、教皇様。……どうして?」
めぐみが痺れる唇を震わせ、弱々しく問いかけた。
隣では、はじめが麻痺毒に抗いながら、絨毯を掻きむしるようにして教皇を睨みつけている。
「くそっ……」
自由の利かなくなった視界の端で、豪奢なカーテンが揺れた。
そこから響いたのは、どこか幼く、けれど底冷えするような聞き覚えのある声。
「あららぁ。簡単に引っかかったねぇ、はじめ君。もう、ゲームオーバーだねぇ」
どこからともなく聞こえてきたのは、ミラーの声だった。




