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第七十六話:元妻です。本物ですか?

 活気を取り戻したスライム国の広場。パン屋から漂う香ばしい匂いすら、今のはじめにはどこか遠くの出来事のように感じられた。

 目の前で、りりとアイが火花を散らしながら朝食の準備を手伝い、琥珀が真っ先にパンに齧り付いている。


その光景のなかに、当たり前のように溶け込んでいる「めぐみ」。


(……あー。……)


はじめは、ちぎったパンを口に運ぶふりをして、めぐみを観察していた。

 脳内では、デバッガーとしての冷徹な「3つの仮説」がループし続けている。


1. 本物:

 しゅうが言った「現代の消滅」から、偶然にもこの世界に転移し、20年の時を経て再会した。最も奇跡的で、最もはじめが望んでいるパターン。


2. コピー:

 しゅう、あるいは【ミラー】が、はじめの記憶ログから生成した高精度の擬似人格(NPC)。はじめを精神的に揺さぶるための、精巧なトラップ。


3. アンデット:

 しゅうのネクロマンシーによって、死体から引き揚げられた亡骸。そこに意志はなく、ただの「動く死体」として操られているだけ。


(どれだ。……どれなんだ。……)


 彼女が笑うたび、かつての記憶と重なって胸が締め付けられる。だが、しゅうが「現代は消えた」と言った直後に現れたことへの不自然さが、はじめの「信じたい心」にブレーキをかける。


「はじめ? どうしたの、そんなに私の顔を見て。……顔に、何かついてる?」


 めぐみが小首を傾げて微笑む。目尻に刻まれた細かな笑い皺や、落ち着いた声のトーン。それは確かにはじめと共に過ごした時間、そして離れていた二十年という歳月を感じさせる「大人の女性」のものだった。


「……あー。いや、……あまりにも、……その。……あの頃と、変わらないなと思って。綺麗に、歳を重ねたんだな、と思ってさ」


はじめは、自分の動揺を隠すように視線を泳がせた。

 目の前にいるのは、白髪が混じり始めた今の自分と釣り合う、慈愛に満ちた「妻」の姿だ。あまりにも自然で、あまりにも「本物」に見える。だからこそ、はじめの脳内では逆に、エラーログのような警告音が鳴り止まない。


(……しゅうは『世界は消えた』と言った。……なのに、なぜ彼女はここにいる? なぜ、俺の前に現れた?)


「ふふ、お世辞でも嬉しいわ。はじめこそ、……少し苦労したみたいだけど、昔よりずっと頼もしい顔になったわね」


 めぐみはそう言って、はじめのゴツゴツとした手を、そっと包み込むように握った。

 その温もり。

 その柔らかさ。

 それは、ホログラムや冷たい死体アンデットには到底ありえない、確かな「生」の感触だった。


(……本物、なのか……? ……いや、待て。……ミラーなら、これくらいのコピーは……)


はじめは、その手の温もりに溺れそうになる心を、必死で論理の鎖で繋ぎ止めていた。


湯気の立つスープを前に、めぐみがふと視線を伏せた。


「……ねえ、はじめ。……私、謝らなきゃいけないことがあるの。あの時……あの日、私から離婚を切り出したりして、本当にごめんなさい」


その言葉に、はじめは心臓を素手で掴まれたような衝撃を受けた。

 二十年以上、ずっと心の奥底にこびりついていた、あの最悪な別れ。記憶の中の彼女が、今、目の前でそれを悔いている。


「……いや、……俺の方こそ、悪かったんだ。……あの頃は、……仕事ばかりで、君を……家庭を全然、……顧みてなかった」


はじめの声が、後悔で重くなる。

 SEとして、ただひたすらにコードを書き、金を稼ぐこと。それが家族を幸せにする唯一の方法だと信じ込んでいた、傲慢で未熟だった自分。


「お金を稼ぐことが、幸せだと思ってて。……本当に、すまなかった」


謝るはじめに、めぐみは首を振って、目に涙を溜めた。


「いいえ! 分かってた。あなたが、私たちのために頑張ってくれていたのは、分かってたの!……でも、寂しくて。……子供もできないし、暗い家で一人で待つのが、ただ、辛かっただけなの……っ」


彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 それは、当時の彼女が抱えていたであろう「孤独」。はじめがもっと早くに気づいて、そばにいてあげるべきだった悲鳴。


「め、めぐみ!……な、泣かないでくれ。……ええと、……その」


はじめは狼狽え、おたおたとおしぼりを探して手を泳がせる。

 その光景を、少し離れた席から「死んだ魚の目」で見つめる二つの視線があった。


「……チッ。……あの女。……『涙』という名の『最終武器』を使いだしましたわ。……姑息ですわね」


アイが、ガチガチと籠手を鳴らしながら毒を吐く。


「……ええ。……あざといです。……はじめ様の良心に揺さぶりをかけるなんて。……なかなかの策士ですね……」


りりも、聖女の微笑みを完全にログアウトさせ、氷のような声で同意した。

 二人の間には、しゅうが現れた時とはまた違う、静かで、それでいて凄まじい緊張感が漂っている。


 それを尻目に、墨花だけが「あらあらあらぁ♪」と優雅に紅茶を啜り、琥珀はパンのおかわりに夢中だった。


めぐみは、はじめに差し出されたおしぼりで目元を拭うと、少し落ち着いたように顔を上げた。


「……はじめ。私、もうすぐ天使国に戻らなきゃいけないの。……もしよかったら、一緒に来てくれない? あなたに、紹介したい人もいるの」


 その誘いに、はじめが応じようとした瞬間、それまで静観していた墨花が、冷ややかな、けれど核心を突く声を投げかけた。


「あら、ちょっと待って。めぐみさんと言ったかしら。……質問があるの。あなたは一体、どうやってここまで来たの? スライム国はともかく、天使国側には厳重な国境があるはず。それを越えて一人で自由に往来するなんて、普通の人間には、簡単には出来ないはずだけどぉ?」


墨花の細められた瞳が、めぐみを品定めするように射抜く。

 だが、めぐみは戸惑う様子もなく、首から下げた精巧な銀のプレートをそっと差し出した。


「これ……今、天使国でお世話になっている教皇様からいただいた『フリーパス』なんです。これがあれば、どこの門も通していただけるの。……疑わせてしまってごめんなさい」


その申し訳なさそうな態度と、「フリーパス」を見て、はじめの中で何かが弾けた。


「……あー。……墨花さん。……あまり失礼なことを言わないでください。彼女は、嘘をつくような人じゃありません」


はじめの言葉は、いつになく冷たく、拒絶の色を帯びていた。

 いつもなら墨花の鋭い指摘に「さすがっすね」と乗っかるはずのはじめが、今は彼女を「敵」のように見ている。


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