第七十五話:誰ですか?元妻です
しゅうが霧のように消え去り、広場には重苦しい沈黙が降り積もっていた。
はじめは、しゅうが最後に放った「核だよ」という言葉を咀嚼できずにいた。システムエンジニアとして積み上げてきた、あの便利で退屈なはずだった日常が、消えてなくなったという事実。
足元に縋り付くアイの冷たい鎧の感触だけが、ここが「現実」であることを主張している。
「はじめ様……」
りりが震える声で呼びかけようとした、その時だった。
「――はじめ? ……もしかして、はじめじゃないの?」
背後から響いた、穏やかで、どこか懐かしい響きを持つ女性の声。
はじめの背中に、冷たい電流が走った。忘れるはずがない。二十年以上前の温かく、そして残酷な思い出。
「え……?」
ゆっくりと、はじめが振り返る。
そこに立っていたのは、記憶の中の姿そのままの女性だった。
「め、めぐみ……? ……本当に、めぐみなのか……?」
はじめの声が、かすれる。
陽だまりのような柔らかな笑顔。かつて共に人生を歩もうと誓った、元妻の姿。
だが、はじめの脳内ではデバッガーとしての冷徹な回路が警報を鳴らす。
(……いや。ありえない。ここは異世界だ。しゅうが『消えた』と言った世界の住人が、ここにいるはずがない……!)
動揺するはじめをよそに、めぐみと呼ばれた女性は、困ったように眉を下げて歩み寄ってきた。
「私ね、自分でもよく分からないの。ずいぶん前になるけれど、空が真っ赤に染まった光景を見て……気がついたら、天使国という場所にいたのよ。最初、天国かと思ったわ」
くすっと笑った、めぐみの告白。
空が赤く染まった――それは、しゅうが語った「核」による終焉の記憶。
「そ、そうなんだ……」
はじめはそれ以上、言葉を継げなかった。
目の前にいるのは、確かに自分の知るめぐみだ。声も、仕草も、纏う空気すらも。
だが、にわかには信じられない。いや、信じてはいけないと本能が叫んでいる。
(……これは、バグなのか? それとも、しゅうの仕掛けた『罠』なのか……?)
「ここで会えたのも、なにかの縁。はじめ、少しお話し、いいかな?」
めぐみは、かつてと変わらない穏やかな眼差しではじめを見つめる。その瞳に毒気はなく、ただ純粋に再会を喜んでいるようにしか見えない。
「あ、ああ……。……分かった」
はじめは、脳内の処理能力をすべて「状況把握」に回していたが、それでも答えは出ない。ただ、彼女の提案を拒む言葉だけが見つからなかった。
そんな「元夫婦」の空気感を、背後で見守る面々の反応はバラバラだった。
「な……。なんなんですの、あの女! いきなり現れて、はじめ様に馴れれれれれれ……馴れ馴れしいですわ!!」
憤慨して肩を震わせているのは、アイだ。
つい数分前に「はじめ様の道具」になると誓ったばかりの彼女にとって、突然現れた「はじめを知り尽くしている風の女」は、明確な邪魔者でしかなかった。
「……それを言うなら、アイさんも、いきなり現れたのは同じだと思うのですが……」
りりが、頬を引きつらせながら小声で突っ込む。
聖女見習いとしての慈愛よりも、今は「はじめ様の過去」という未知の領域に踏み込まれた不安の方が勝っている。二人の間には、図らずも「新参者への嫉妬」で共鳴しあっていた。
そんな修羅場の一歩手前を、墨花は扇子で口元を隠しながら眺めている。
「あらあらあらぁ♪ まさかの前妻登場かしら。はじめさんって、想像以上に複雑怪奇ねぇ……うふふ、面白いわ」
事態を楽しんでいる不敵な魔女の隣で、琥珀だけが大きく欠伸をした。
「……ねぇ、はじめ様。……朝ごはん、まだぁ? 琥珀、お腹空いちゃった」
別世界の滅亡も、元妻の出現も、空腹の獣人少女にとってはどうでもいいこと。だった。
はじめは、縋るようなアイの視線と、りりの突き刺さるような不安げな視線、そしてめぐみの穏やかな笑顔に挟まれ、文字通りオーバーヒートを起こしかけていた。
「あー……。とりあえず、朝飯にするか。……と、その前に、アイさん」
はじめが混乱を振り払うように声をかけると、アイは即座に反応した。ただし、その表情はどこか不満げだ。
「アイさん、ではありません。アイ、です。はじめ様、その余計な『さん』という呼び方、やめてくださいませ!」
鋼の鎧をガチガチと鳴らしながら、彼女ははじめの顔をじっと覗き込む。
「……あー。分かったよ、アイ。……それより、この『人形』にされたこの国の人たち、元に戻せるのか?」
はじめが広場を見渡しながら尋ねる。そこには、「静止」させられたままの人々が、物言わぬ彫像のように点在していた。
アイは、ふんと鼻を鳴らすと、誇らしげに胸を張った。
「当然です! 私を誰だと思っているのですか。はじめ様のものとなった今、この程度の修復、造作もありません! いえ……ほら、もう、元通りですわ!」
アイが指をパチンと鳴らす。
その瞬間、広場を覆っていた不気味な静寂が、ガラスが割れるような音と共に霧散した。
「…………(プルプル)」
「……おや? 俺は、何をしていたんだ……?」
「あら、買い物に行くんじゃなかったかしら……」
「…………(プルプル)」
人形になっていた人々が、何事もなかったかのように動き出し、日常の喧騒が広場に戻ってくる。誰一人欠けることなく、支配から解き放たれたのだ。
「はじめ様! 見てください、皆さんが……!」
りりが歓喜の声を上げ、琥珀も「あ、パン屋のおじちゃん動いた!」と目を輝かせる。
はじめは、その光景を黙って見つめていた。一年前から止まっていた時間が、自分の「咳き込み」というバグがきっかけで、今、再び動き出した。
だが、その背後には、変わらぬ微笑みを浮かべたままの「めぐみ」が立っている。
「さすがね、はじめ。あなたの周りには、不思議で素敵な人たちがたくさんいるのね」
めぐみのその言葉に、はじめは再び、奥歯の浮くような違和感を覚えるのだった。




