第七十四話:帰還先の真実
アイアンが逆上し、鋼の籠手をはじめに向けて振り上げた瞬間。
「。……黙れ。アイアン」
低く、地這うような声。
その一言で、広場の空気が凍りついた。暴力的な殺意を放っていたアイアンが、まるで電源を切られた人形のように、その場でピタリと動きを止める。
しゅうは、取り乱すアイアンには一瞥もくれず、ただ窓辺にいるはじめを見つめた。その瞳に、初めて「生きた熱」のような、歪んだ歓喜が灯る。
「……久しぶりだね。はじめ君。……僕だよ? 覚えてないかい?修一だよ。山村修一だ」
……修一。
その名がはじめの鼓膜を叩いた瞬間、はじめの思考回路に巨大なノイズが走った。
「え?……しゅう、いち……? ……本当に、修一なのか……?」
はじめの声が、微かに震える。
目の前に立つ「死」そのもののような男と、かつて学食で「人を救う仕事に就きたい」と笑い合っていた親友の姿が、どうしても重ならない。
「お前如きが、しゅう様を疑うのか! 控えろ、この不浄な『ノイズ』がぁぁぁ!!」
アイアンが我慢しきれず、はじめを指差して叫ぶ。しかし、その忠誠心は、無慈悲な一撃で叩き伏せられた。
「……黙れと言っているだろ。アイアン。……僕は今、はじめ君と話をしているんだ。……邪魔をするな。……うざいんだよ」
しゅうの氷のような言葉。
アイアンは心臓を射抜かれたような顔をして、がたがたと鎧を鳴らした。
「……ですが、しゅう様! ……私は、あなたのために、一年かけてこの世界を……!」
アイアンは縋るようにしゅうへ擦り寄ろうとしたが、しゅうは眉一つ動かさずに彼女を突き放した。
「……お前、耳障りなんだ。……僕とはじめ君の話を、邪魔するな! ……消えろ!」
「………あ……。……あ、ああ……」
アイアンの喉から、絶望の混じった喘ぎが漏れる。
一年。
命を削り、心を殺して積み上げた自分の「芸術」も、自分自身の存在も。
憧れの「あのお方」にとって、再会した親友との会話のノイズでしかないと宣告されたのだ。
(……あー。……こいつは、昔から、気に入らないものは、平気で捨てる奴だったな……)
はじめは、しゅうの狂気的な執着を自分に引きつけつつも、このままではアイアンが「しゅうの手によって完全に消去される」と直感した。
「ちょっと待て、修一!……お前のその『使い捨て』の美学。……見ていられない」
はじめは、しゅうの視線を遮るように、あえて震えるアイアンを呼んだ。
「……おい、……ア、……アイ……ゴホッ、ゴホッ! ……アイアン、さん……」
しゅうに拒絶され、中身が空っぽの殻になろうとしていたアイアンの耳に、その言葉が届く。
はじめが喉にソーダを詰まらせて、名前の途中でむせただけの、ただの「音声データの欠落」。
「……今、……何と……?」
アイアンが、ガチガチと震える鎧の隙間から顔を上げた。
(……しゅうは、私を「不要なゴミ」として突き放したが、あの人は今、私を「アイ」と呼んだ。短く、親愛を込めた愛称で……)
「……アイ。……わたくしの、新しい、名前……?」
「……あー。いや、……今のは、……単にむせただけで」
「……はじめ様!!」
アイアンが、しゅうの目の前だということも忘れて、膝で滑るようにして宿の窓辺――はじめの足元へと縋り付いた。
「……わたくしは、たった今から、アイです! アイアンなどという古臭い殻は、今、捨てました! ……アイとお呼びくださった、あなた様こそが……!!」
はじめは、ソーダの瓶を持ったまま、死んだ魚のような目をこれ以上ないほど点にさせた。
「あー。これ、どうなってるんですか?」
墨花は、不敵な笑いを込め、囁いた。
「うふふっ。ちょろいわねぇ♪」
その光景を、しゅうは感情の欠落した瞳で見下ろしていた。かつては自分が丹精込めて育て上げた「最高傑作」だったはずの存在。それが目の前で、かつての親友の「咳き込み」によって書き換えられたというのに。
「……ふふ。さすがだね、はじめ君。やっぱ君は、面白いや」
しゅうが、くすりと笑った。
それはかつて大学の学食で、はじめの冗談を聞いた時と同じ、軽やかな笑い。
「いいよ。僕はもう、いらないから。はじめ君、気に入ったのならあげるよ」
「っ……しゅう様!?」
アイの悲鳴のような声。しかし、しゅうの視線はすでに、はじめ以外の全てを切り捨てていた。
「……あー。随分と、太っ腹ですね。かつて、あれほど家族を『大切にしたい』と言っていた男のセリフとは、到底思えませんよ」
はじめが、皮肉を込めて吐き捨てる。
「『家族』、か。懐かしい単語だね。でもね、はじめ君。……この世界では、そんな不確かなデータに頼る必要はないんだよ。……だって、君にはもう、帰る場所なんて、どこにもないんだから」
しゅうは、まるで明日の天気を告げるような気軽さで、言葉を続けた。
「核だよ。あっちの世界はもう、消えてなくなったんだよ。はじめ君にも、心当たりがあるんじゃないのかい?」
「核……心当たり?……」
はじめには、転移する瞬間に、赤い光をみた記憶がある。それを直感した。
「ま、まさか……あれが、そうだったのか……」
はじめの脳裏に、あの忌まわしい赤黒い閃光がフラッシュバックする。
すべてを焼き尽くし、世界を強制終了させた、あの光。
「……心当たりがあるようだね。たぶん、君の直感は間違っていないんじゃないかな」
しゅうは、まるで数式が解けたことを確認するかのように、淡々と頷いた。その平穏な表情が、はじめには何よりも恐ろしかった。
「な、なんで………どうして、そんな、馬鹿げたことをしたんだ……!?」
はじめの声は掠れ、絶望が足元から這い上がってくる。システムエンジニアとして積み上げてきた社会も、守りたかった日常も、すべては、この目の前の男の指先一つで消されたというのか。
「……もう、いらなくなったからだよ」
しゅうは、はじめの足元で震えるアイをチラリと見て、無機質に言い放った。
「今の彼女と同じさ。……価値を失ったデータは、削除されるのが道理だろ?……あっちの世界は、もう十分に汚れて、修復不可能だった。……だから、僕が終わらせてあげたんだよ」
はじめは言葉を失った。
論理が通じないのではない。しゅうの中に、はじめが知っていた「人間としての倫理観」が一行も残っていないのだ。
「さて。……話はここでおしまい。楽しかったよ、はじめ君」
しゅうの体が、足元から黒い霧に溶け始める。
「じゃあ、また会おう。……僕はいつでも、君を見ているからね」
その言葉を最後に、しゅうの姿は完全に霧へと消えた。
広場には、立ち尽くすはじめと、彼に縋り付く元・オクタ・エラーのアイ、そして沈黙を守る仲間たちだけが取り残された。
はじめは、震える手でソーダの瓶を握りしめたまま、しゅうが消えた空を、ただ見上げることしかできなかった。




