第七十三話:添削ですか?いたずらです
その夜、スライム国の静寂は、アイアンが望む「永遠の静止」とは別の意味で塗り替えられていった。
はじめを先頭に、一行は影に紛れて街を巡る。
アイアンが、ミリ単位の狂いもなく並べたスライムの像。
はじめはそれを一つずつ、ほんの数センチだけ、絶妙に「座りの悪い角度」にずらしていく。
「よし。ここも、一歩歩くごとに、違和感で背筋が痒くなるような角度にしておきました」
「あらあらぁ♪ 私は、あちらの真っ白な壁に、少し『情緒』を足して差し上げましょうかしらぁ」
墨花は扇を翻すと、懐から墨汁の瓶を取り出し、ニヤリと笑った。
彼女が扇で風を送るたび、アイアンが完璧な「白」を保っていた壁や、スライムの像の「顔」の真ん中に、漆黒の墨が弾丸のような速度で吹き付けられていく。
それは芸術的な水墨画などではなく、ただの「墨汁のシミ」だ。完璧なキャンバスを、一瞬で「ただの汚れた壁」に変える、墨花らしい、優雅で、けれど容赦のない汚しだった。
「琥珀も、やるですっ! はじめ様、あそこに、琥珀の足跡、たくさんつけてもいいですかっ!?」
「あー……琥珀ちゃん。足跡だけじゃなく、もっと好きにしていいですよ」
はじめの許可を得るや否や、琥珀は、墨花が汚した壁や、地面のタイルに、落ちていた木の枝や、自分の爪を使って、思いつく限りの「らくがき」を書き殴り始めた。
それは、歪なスライムの顔だったり、琥珀が今日食べたサンドイッチの絵だったり、あるいはただのギザギザの線だったり……。アイアンの美学には存在しない、子供のラクガキという名の「ノイズ」が、街のあちこちに、無邪気に、そして大量に増殖していく。
「はじめ様! りりは、琥珀ちゃんのように汚すのは性分に合いません! ですが……この不気味な建物の『一部分』を、少しだけ壊すことなら、できます!」
りりは杖を掲げると、アイアンが完璧な左右対称を保って建てた、プルプルした質感の塔の、その最上部の、一番目立つ装飾に狙いを定め、杖で殴打した。
「……えいっ!!」
淡々と、けれど休むことなく続けられた「深夜残業」。
はじめの緻密な「位置ずらし」、墨花の無慈悲な「墨汚し」、琥珀の無邪気な「らくがき」、そしてりりの「奇妙な破壊」……。
一晩が明け、太陽が水平線から顔を出した時、そこにはアイアンが心血を注いだ「芸術」を、根底から嘲笑うような……あまりにも不細工で、あまりにも「生々しい」カオスが広がっていた。
朝日が、スライム国のパステルカラーの街並みを無慈悲に照らし出す。
アイアンにとっては、最愛の「あのお方」が訪れる、人生で最も輝かしいはずの朝。
彼女は、鋼鉄の鎧をカツーン、カツーンと鳴らしながら、最後の仕上げのために広場へと現れた。
その足取りは、いつになく軽やかで、うっとりとした熱を帯びていた。
「さあ。完璧な朝。あのお方が、私の最高傑作をご覧になる……この『永遠に続く静寂の美』を……」
だが、広場の中心に立った瞬間。
アイアンの言葉が、そして呼吸が、凍りついた。
「。…………。……え?」
視線の先。
ミリ単位で配置したはずの『スライム像』が、どれもこれも「首をかしげたような」絶妙に気持ちの悪い角度に傾いている。
純白だったはずの壁には、巨大な『墨汁のシミ』が、まるで中指を立てているかのように無造作にぶちまけられていた。
さらに、アイアンが「神聖なシンメトリー」として完成させた塔の先端は、。……あろうことか、片方だけが「かじりかけのパン」のように不格好に欠けている。
極め付けは、足元のタイルだ。そこには、昨晩の琥珀が爪で書き殴ったであろう、『にっこり笑った、ひどく下手くそなスライム』が、あちこちに増殖していた。
「。……あ。……あ、あああ……。……」
崩れ落ちたアイアンが、絶望に震える手で地面の『スライムの絵』を隠そうとした、その時だった。
カラン、と。
広場に、場違いなほど軽やかな、そしてどこか虚無を孕んだ足音が響いた。
「やあ、アイアン。約束の朝だね。……準備はできたかな」
白黒の装束を纏い、死を纏うような冷気を放ちながら現れたのは、ネクロマンサー・しゅうだった。
(。…………。……)
しゅうの視線が、ゆっくりと汚された像のひとつを指差して、墨で汚されたスライム像を通り過ぎ、不格好に削られた塔をなぞり、最後に――アイアンの足元に描かれた『不細工な落書き』で止まった。
「アイアン。これが、君が一年かけて準備した、僕に見せたかったものなのかい?」
しゅうの声は、怒りでも失望でもなく、ただ圧倒的な「無」だった。
それが、アイアンの心臓をどんなナイフよりも深く突き刺す。
「……ち、違う、違うんです!しゅう様!……これは、その……違うのです!」
アイアンは鋼の兜を地面に擦りつけんばかりに平伏した。
1年間の誇りが、愛が、努力が。
「はじめ達の嫌がらせ」という、あまりにも幼稚で不細工なノイズによって、しゅうの目の前で『ゴミ』だと定義された。
そこへ。宿の窓から、食べかけのプルプルサンドを片手にしたはじめが、のんびりと身を乗り出した。
「あー。お初にお目に掛かります。あなたがこの『不細工な展示会』の主催者……。あるいは、……『お客様』ですか?」
はじめは窓枠に肘をつき、食べかけのサンドイッチを片手に、広場に立つ黒衣の男――しゅうを見下ろした。
その瞳には、相手がかつての親友だという認識は一切ない。ただ、アイアンが「あのお方」と呼び、この世界のバグを加速させている「元凶」への、純粋な好奇心と敵意だけが宿っている。
「あー。……彼女、随分と張り切って準備していたようですが。……どうも『完成形』が僕の好みじゃなかったのでね」
はじめは、震えながら平伏しているアイアンを顎で指し、鼻で笑ってみせた。
「まことに勝手ながら、添削をさせて頂きました。……どうですか?」
「無機質な『静止画』より、こっちの方が、ずっと『躍動的』だと思いませんか?」
はじめはソーダの瓶を、しゅうに向かって挑発的に掲げた。
(。…………。……)
しゅうは、はじめを見上げたまま、一言も発しない。
だが、その周囲の空気が、ミリ単位で凍りついていくのがわかる。アイアンは、しゅうの沈黙が何よりも恐ろしいのか、ガチガチと鎧を鳴らして震え、ついにその場で絶叫した。
「し、しゅう様!! 違います!! 違うのです!!……この、この『不浄なノイズ』共が!! 私の、私の一年を!!」
「……殺してやる!! 今すぐお前達全員、『人形』に変えてやるわぁぁぁぁ!!」




