第七十二話:夕食です。作戦会議です
「……あー。では、琥珀ちゃんもおなかをすかせてますので、何か、おいしいものをたくさん買って、宿で、話しながらたべましょう」
はじめは、アイアンが消えていった夜霧の向こう側から視線を戻すと、何事もなかったかのように自分の煤けた上着を払った。
「やったぁぁ!! はじめ様、大好き! もう、おなかが鳴りすぎて、喉から手が出そうだったんです!」
さっきまでのアイアンへの警戒心はどこへやら、琥珀は尻尾をプロペラのように振り回して、はじめの周りを飛び跳ねた。
一方で、りりは未だに杖を握りしめたまま、信じられないものを見るような目ではじめを睨みつけている。
「はじめ様! ……今、あんな恐ろしい方と対峙したばかりですよ!? 少しは危機感というものを……。だいたい、こんな不気味な街の食べ物なんて、何が入っているか分かったものではありません!」
「あらあらぁ、りりさん。そんなに怖がらなくても大丈夫ですわよぉ♪」
墨花が扇をパチンと閉じ、暗い路地の先にある、一際鮮やかなパステルカラーの屋台を指し示した。
「ふふふぅ♪ あちらにあるお店、お勧めですわ。三年前にお伺いした時も、あそこの『プルプルサンド』は絶品でしたもの。スライム国の厳選された果実をふんだんに使っていて……はじめ様、りりさん、琥珀ちゃん。あそこで買い出しをしませんこと?」
「あー、墨花さんのお勧めなら間違いないですね。……琥珀ちゃん、行きましょう」
「はいっ! 墨花お姉ちゃん、さすがですっ!」
「わかりました。墨花さん」
結局、冷静すぎるはじめ、食欲に忠実な琥珀と、疑心暗鬼のりり、そして墨花の優雅な強引さに巻き込まれる形で、一行は屋台へと向かった。
売られていたのは、墨花が言った通り、カラフルなスライム状のゼリーが厚切りパンに挟まった「プルプルサンド」や、不思議な光沢を放つ果実のジュース。はじめは「あー、全部のトッピングを載せてください」と、デバッガーにあるまじき大雑把な注文で、両手いっぱいの紙袋を抱えることになった。
カツーン、カツーン……。
宿へ戻る道中、どこからかアイアンのヒールの音が聞こえてくるような気がして、はじめは一度だけ足を止めた。だが、振り返ってもそこには埃を被った「静止した人形」が転がっているだけだった。
「……あー。行きましょうか。冷めないうちに」
ホイムンの待つ宿へと戻り、ギィーとプルプルした質感の扉を開ける。
四人部屋の丸テーブルに、墨花お勧めの「プルプルサンド」を山のように広げると、琥珀の歓声が部屋の空気を揺らした。
「わあぁ! はじめ様、これ、本当にぷにぷにしてて、ルナちゃんが言ってた精霊さんの光みたいにキラキラしてます!」
「……あー。見た目は毒々しいですが、バグってはいなそうですね。……さて。食べながら、少し整理しましょうか」
はじめは、濁った瞳で窓の外の「静まり返った街」を見つめながら、墨花お勧めのサンドイッチを一つ、大きな口で頬張った。
「はふっ、もぐもぐ……ふぉいひー!! はじめ様、これ、お口の中で暴れてます! ぷるぷるが、踊ってますっ!!」
琥珀は両手に「プルプルサンド」を握りしめ、口の周りをカラフルな果汁で汚しながら、文字通り夢中で食らいついていた。アイアンの恐怖も、世界の危機も、今の彼女にとっては「サンドイッチの弾力」という至上の現実の前では些細な出来事に過ぎないらしい。
その隣で、はじめは半分ほど食べたサンドイッチを紙に包むと、濁った瞳をりりと墨花に向けた。
「……あー。琥珀ちゃんが静かなうちに、少し話をしましょうか。……皆さん、さっきの『アイアン』という女性に、どんな印象を持ちました?」
りりは、毒々しい色のジュースを警戒しながら一口啜り、眉をひそめた。
「……傲慢な方です。生きているスライムたちを『作品』と呼び、道端に転がっている埃まみれの像を『芸術』だと言い張る……。あの人の目には、街の全て、『作品』にしか見えていない気がします」
「あらあらぁ♪ 私は、とっても情熱的な方だと思いましたわよぉ」
墨花は優雅にサンドイッチを小さく千切りながら、くすくすと喉を鳴らした。
「あんなに大きな鎧を着込んで、自分の『作品』が汚されるのをあんなに怖がって……。まるで、初めて描いた絵を先生に見せる前の、小さなお嬢さんのようですわ。……もっとも、その『先生』というのが、あまり褒めてくださるような方には見えませんけれどぉ♪」
二人の意見を聞き、はじめは天井のプルプルした梁を見上げた。
「……あー。ラッピング。……彼女はそう言いましたね。つまり、作り終えたら……完成したら、僕たちを排除する、という意味ですよね」
はじめはそこで、フッと口角を上げた。それは、彼がシステムの決定的な「脆弱性」を見つけた時にだけ見せる、ひどく不気味で、楽しげな含み笑いだった。
「では……。もし、いつまで経っても『完成』しなかったら、あの芸術家の皆さまって、どうなりますかね?」
はじめはテーブルの上に、食べかけのサンドイッチの袋を一つ、わざと雑な角度で置いた。
「完璧を求める芸術家にとって、一番耐えられないのは、完成間近の作品に『消せない汚れ』や『意図しないノイズ』が混ざり続けることだ。……アイアンさんがこの街を綺麗に包もうとするなら、僕はその端から、徹底的に『不細工な落書き』を残していこうと思います」
はじめの濁った瞳が、夜の窓の外――アイアンが愛してやまない「静止した街」へと向けられた。
「……あー。方針が決まったところで、申し訳ございません、皆様。今日は、深夜残業をしていただきます。よろしいですか?」
はじめが事務的なトーンで告げると、テーブルに山積みだったプルプルサンドを完食したばかりの琥珀が、ピンと尻尾を立てて真っ先に挙手した。
「はーいっ! はじめ様とのお出かけなら、琥珀、朝まで元気いっぱいです!」
「あらあらぁ、私も構いませんわよぉ♪ 深夜のお散歩なんて、風情があってよろしいじゃありませんか。うふふ、はじめ様、何を『仕掛ける』おつもりかしらぁ」
墨花も扇を揺らして、楽しげに目を細める。りりは「深夜残業……。はじめ様のいた世界では、そのような不健全な文化がまかり通っていたのですか?」と呆れつつも、結局は杖を握り直して立ち上がった。
「……仕方ありません。はじめ様がお一人でまた無茶なデバッグを始めないよう、監視役として付き合います」
「……あー。ありがとうございます。では、出かけましょうか」
はじめは、濁った瞳にわずかな光を宿し、部屋の明かりを消した。




