第七十一話:芸術家ですか?アイアンです
「おなかすいたー! はじめ様、おなかが背中とくっついて、消えちゃいそうです!」
宿の部屋に琥珀の絶叫が響き渡る。
空腹のあまり、彼女の尻尾が力なく床を叩き、その視線はチラチラと部屋の隅にある「プルプルした質感の椅子」に向けられていた。
「あー……琥珀ちゃん。『椅子』は食べ物じゃないからね。……というか、……その椅子も、椅子じゃないかも知れないし……」
はじめはタンスの中身を確認し終えると、深く溜息をついて立ち上がった。
素泊まりの宿に食事はない。
「そういえば、墨花さん。……墨花さんは、スライム国にはよく来るんですか?詳しいみたいですけど?」
はじめの問いに、墨花は扇を優雅に揺らしながら、困ったように首を傾げてみせた。
「うふふふぅ♪ 私のお店がある魚人国からは、ここはちょうど正反対、かなりの距離がありますから、数年に一度程度しか来られませんのよぉ」
墨花は窓の外、夜の闇に沈む街並みに目を向けた。
「前回、買い出しに来たのは……そう、三年前でしたかしら?……その時は、もう少し、騒がしい国でしたわよぉ♪」
「スライムさん達は無口な方々が多いですが、いろんな方々がいらっしゃいますから♪」
「三年前、……ですか。……」
はじめは、今のこの、不気味なほどの静寂に疑問を抱いた。
「……あー、ちょっと待ってください。正反対、ということは、逆に近いんじゃないですか?」
はじめの言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
墨花は扇を止めて目を丸くし、りりと琥珀は顔を見合わせ、首を傾げる。
「……? はじめ様、何を仰っているのですか? 正反対なのですから、一番遠くに決まっているではありませんか」
「……あー、……そうか。ここは、丸くないんですね……」
はじめは額を押さえ、深く溜息をついた。
「では、墨花さん。……魚人国から、ずっと東に進み続けたら、どうなるんですか?」
「ふふふぅ♪ はじめさんたら、面白いことを聞きますのねぇ。ずーっと東に行くと、黒い霧みたいなものに包まれますわ」
墨花は、面白がるように、しかしどこか冷淡な響きを含ませて告げる。
「そこを無視して、さらに進もうとすると……次元の狭間に、落ちる。って聞いていますわ。……試したことはありませんけれど」
「だって、……落ちたら、二度と戻ってこられませんからぁ♪」
はじめの脳裏に、開発中のゲームでよく見た、テクスチャの貼られていない**「虚無の空間」**が浮かんだ。
(……境界線の外側は、未定義領域か……手抜きすぎだろ……)
はじめは、話題をかえるように、琥珀に話しかけた。
「あー。……とりあえず、何か食べに行きましょうか」
「やったぁ!!はじめ様、大好きぃ♪」
「まあ、……琥珀ちゃんに、ホイムンさんを襲わせるわけにも、いきませんからね……」
一行は、上弦の月が輝く、街へと踏み出した。
街灯に照らされたパステルカラーの街並みは、静まり返っている。
「そういえば、墨花さん。……美味しいお店、知りませんか?」
「そうですねぇ……って、あらあらあらぁ?はじめ様、あそこにある『あれ』は、何かしら?」
「昼間は、なかったと思いますけれどぉ?」
墨花が扇で指した先――。
広場の中央、噴水のすぐそばに、月光を浴びてキラキラと輝く「スライムの像」が置かれていた。
昼間、そこを通りかかった時には、間違いなく何もなかったはずの場所だ。
「あー、……彫刻?いや、人形、ですかね。……誰かが夕方、設置したとか?」
はじめが近づいてそれを見つめると、あまりの造形の細かさに息を呑む。
プルプルとした質感が、そのまま硬い物質に閉じ込められたような、不気味なまでの「静止」。
「あらぁ?あちらにも、彫刻がありますわねぇ」
墨花が扇で指した先、大通りから少し外れた薄暗い路地裏。
はじめが近づいて覗き込むと、その造形は、恐怖に歪んで逃げ出そうとするスライムの姿を完璧に捉えていた。
「いや、見てください。これ、……埃が、山のように積もってますよ」
はじめが指でなぞると、厚い埃の層が剥がれ、下の「鋼のような質感」が露わになる。
「……三年前には、こんなものありませんでしたわ。……ということは、その間に誰かが置いて、ずっと放置されていた、ということですのねぇ?」
墨花の言葉に、はじめは周囲を見渡した。
すぐ側を、一匹のスライムがプルプルと通り過ぎていく。だが、そのスライムは、足元にある「埃まみれの仲間だったはずの像」に、一瞥もくれない。
「……あー、徹底した、無関心。……ただの、『オブジェ』として処理されてるのか」
はじめは、その「人形」が道の端っこで、なんとも座りの悪い角度で固まっているのが気になった。
デバッガーとしての几帳面さが、その「不完全な配置」を許さない。
「あー……これ、この向きだと、通りにくいし、見た目も悪い。……少し、こっちに……」
はじめが「よいしょ」と、その冷たく重い人形を持ち上げ、タイルの中心へと、完璧な角度で置き直した。
――その瞬間。
カツーン、カツーン、と。
静寂を切り裂く、高く、硬いヒールの音が背後から響き渡った。
「……あーあ。……やってくれちゃったわね」
闇の中から現れたのは、巨大な、あまりに無機質な鋼鉄の鎧を纏った影。
だが、その中から聞こえてくるのは、美しく、そして猛毒を含んだ女性の声。
「汚い手で、私の芸術を触らないでくれる?」
鎧の兜の隙間から、冷徹な視線がはじめを射抜く。
「せっかくの完璧なレイアウトが、あなたのせいで、最低のゴミ屑に成り下がったわ」
「え?……女性……? いや、場所、ダメでした?」
はじめの間の抜けた問いに、鋼の守護者――アイアンは、吐き捨てるように言い放った。
「……死になさい。……私の作品に、あなたたちは、必要ないのよ」
アイアンの纏う鋼鉄の鎧から、物理法則を無視した圧倒的な圧力が放たれる。
りりが咄嗟に杖を構え、琥珀が低い唸り声を上げてはじめの前に出た。
一触即発の、静まり返った広場。
だが、アイアンははじめを射抜いていた冷徹な視線を、ふっと彼が動かした「人形」へと戻した。
「でも、今日は止めておくわ。あなたたちに構ってる時間、ないの」
アイアンは、はじめから視線を外し、うっとりと自分自身の鋼の籠手を見つめた。
その声は、先ほどまでの氷のような冷たさを失い、熱に浮かされたような、甘く、毒々しい響きを帯びる。
「あのお方が。……世界で唯一、私を認めてくださった、あのお方が。……。……もうすぐ、私の作品をご覧になるのよ」
彼女の指先が、はじめが動かした「人形」の頭を、愛おしそうに――けれど、力任せに撫でる。
「あのお方が望むのは、ノイズのない世界。……だから私は、この街を、……『至高の作品』として、あのお方に、捧げなければならないの」
はじめを射抜く視線が、再び「ゴミ」を見るものへと戻る。
「……汚い手で、私の献上品に触れないでちょうだい!」
「不細工なあなたたちを相手にするのは、ラッピングが、終わってからにしてあげるわ」
カツーン、と最後の一音が響いた時。
はじめが「あー、……待って。……あの方って」と、言いかけるよりも早く。
鋼の守護者は、その「歪んだ愛」と共に、夜霧の中へとログアウトするように消えていた。
「……あー。行っちゃいましたね」
はじめは、自分の右手をじっと見つめる。
アイアンが放ったプレッシャー……。
それは攻撃というより、世界そのものを「読み取り専用」に書き換えようとする、拒絶の波動だった。
「……はじめ様。……あの人、オクタ・エラーの一人ですよね? ……この国、やっぱり何かが、致命的に壊れています」
りりの震える声に、はじめは濁った瞳で頷くしかなかった。
上弦の月が、静かに輝いていた。




